2017年5月17日水曜日

こころもとないままでいいとしたらどうしよう



こころもとなく感じる。

だから確実にしたいと思う。




壊れないように、
間違えないように、
すぐに破れてしまわないように、

あとで、違ったと思わなくてすむように。
過去の自分を恨まなくてすむように。


そのための安心がほしい。



安心がほしくて、じたばたしてるんだ。
怖いから。



そして、努力次第では安心が得られると思ってる。

いつか、確定的でぐらつかない足場を得られると思ってる。




でも、こころもとないのが自然だったらどうしよう?



こころもとなくて、
かなしくて、
不安で、
自信がなくて、

それがわたしたちの自然だったらどうしよう?



それでいいのだったらどうしよう?



じたばた努力することで、

ほんとうのくつろぎや何も確定的なものがないという安心感から、
離れているとしたらどうしよう?






こころもとないままでいいとしたら、
わたしは、望みを失うと同時に安らかになれる。


その状態を望んでいたわけじゃないけど。






2017年5月16日火曜日

【群衆】ひとりでいるのが淋しいのは、何かがおかしいのではないか


思考と感情は不純なもの、
不要なものだという言葉に出会った。



人間の感情はすべて憎悪であるとも。



前にもご紹介した
もののケのしおりちゃんという女の子の話していることなんだけれど、

興味があれば、
もののケのしおりちゃん Twilog(最近のものは非公開)
をごらんになってみてください。





わたしも、きっとそうなんだろうなと思ってる。

もちろん、
いくら不純だと言われても、
わたしの頭はその不純なものでいっぱいで、
いまだなくすこともできていないんだけれど。





わたしたちは幼い頃に、
「みんなで仲良くしましょうね」と習うので、

物理的にひとり、
心理的にひとり、

であることをネガティブなものだと思ってる。


ひとりになることを怖れている。





たとえば、
いろんなことにチャレンジして失敗することが怖いのも、
「お金が稼げない」とか、
「親の顔をつぶす」とか、
「尊敬されなくなる」とか、
いろいろ無数に理由はあげられると思うけど、

結局深掘りしていったら、
「ひとりぼっちになりたくない」が出てくると思う。






以前にHappyちゃんのインスタ配信を見ていたとき、

「周りに、不安だらけの人しかいなかったら、失敗するのが怖いけど、
うちらみたいに「失敗、うけるー」って言ってくれる人ばっかりが周りにいたらどう?
チャレンジしても、失敗しても大丈夫だよ」

みたいなことを言ってた。



あの発言は、人を勇気づけるものになっていたと思う。




ただひとつわたしにあった違和感は、「仲間」。


「みんなで一緒にチャレンジしてくなら、怖さも減るよね」
という認識。





上記のしおりちゃんは、すべての「人間関係は不要」と言う。

自分と繋がってさえいれば。




わたしが、仲間をほしがる感覚になじめなかったのは、

「じゃあ仲間がいなければやらないの?」
「結局外側次第で自分が望むことをするかどうかを決めるの?」
「外側が内側に影響するの?」
「仲間と思ってる人が自分の望むことを理解しなかったり嫌がったらやめるの?」

って問いがずっと消えなかったから。



違うだろ、と。




チャレンジとかジャンプというものは、結局誰の後押しもなく自分で選ばなきゃ、
傍目から見てそれが「跳んだ」ように見えても、

結局は依存の域を抜けてないんじゃないか、と思った。




そういう視点での「仲間」は、覚悟や自分の負うべき責任を免責、減免させるためのものでしかない。







OSHOの言葉を載せます。







孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

 私はひとりでいるときはいつも、かけ離れ、孤独で、惨めな感じがします。私は他の人たちと一緒にいるときしか自分を愛せません。独りだと、恥ずかしくて、自分が好きではありません。まるで私は他人の目を通して自分を評価しているように思えます。


 それは根本的な問題のひとつだ。人間ひとりひとりがそれに直面しなければならない。
 それはあなただけではない。子どもたちの育て方が、この惨めさ全体の原因だ。あるがままの自分で認められている子どもは、ひとりもいない。両親、先生、年長者たちの指示に従えば、彼は褒美がもらえる。これらの指示は、彼の自然さに反するかもしれない。なぜなら、これらの指示は、彼によって、あるいは彼のためになされたものではないからだ。誰かが5千年前にこれらの原則をつくり、それらがいまだに子どもたちを育てるのに用いられている。
 当然、子どもはみな、置き換えられる。彼は本来の自分ではない。自分自身ではない。彼は誰か他の人だ。その誰か他の人は、社会によって、他人によって与えられている。
 だから、あなたがひとりで、あなたに指図する人が誰もいないとき、あなたはただ自分の本性に寛ぐ。演じる必要は何もない。見ている人がいないからだ。その、自分の本性に寛ぐことが、あなたに罪悪感を抱かせる。あなたは自分の両親に、聖職者に、社会に逆らっていて、彼らはあなたに、あなたは、あなた自身では、正しくないと言っているからだ。あなたはそれを受け容れたのだ。それはあなたの中で条件付けされたものになっている。
 あなたが自分でやることはすべて、つねに非難され、あなたが他人に従ってやることはすべて、つねに褒められる。
 あなたが独り在るときには、他には誰もそこにいない。当然、あなたは役目を果たす必要はない。あなたは偽善者である必要はない。あなたはあるがままの自分に、ただ寛ぐ。だが、あなたのマインドは他人から与えられたゴミでいっぱいだ。
 だから、あなたが他の人たちといるときは、その他の人たちがあなたに指図している。そして、あなたが独りのときは、他の人たちによって作られたマインドがあなたを醜く感じさせ、罪悪感を抱かせ、価値がないと思わせる。
 人びとが独りになりたがらないのは、そのためだ。彼らはつねに、他の誰かといたがる。他の誰かといると、彼らは自分の本性に寛ぐことができないからだ。他人の存在が、彼らを緊張させておく。他人がそこにいて、あなたが取るすべての行動と仕草を瞬間ごとに判定しているのだ。
 だからあなたは、正しいと教えられた、ある行動をただ演じる。それで、あなたのマインドは気分がいい。それは条件付けに沿っている。あなたがうまくやったので、あなたのマインドは幸せだ。あなたは素晴らしい。
 人びとは群集を必要とする。これが、彼らはなぜつねにヒンドゥー教に、キリスト教に、イスラム教に、この国に、あの国に、この民族に、あの民族に属したがるのかという、心理的な理由だ。 たとえそれでは物足りなくても、彼らはロータリークラブ、ライオンクラブをつくる。




元文はコチラ→「孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

(もっと長いし面白いので続きも読んでみてね)





OSHO HPより引用させていただきました)









わたしたちは、「ひとりになりたくない」と言うけど、
しかもそれが行動選択の最も深いところにある切実な動機になっていたりもして、

さらに、
それは弱い人間ゆえに仕方のないことであり克服する必要はないもの、
だと思いがちだし、

それを「人間の哀しくもいじらしい、可愛さ」だととらえ、
それゆえに「人は人と深く結びつこうとするし、絆を築ける」とポジティブ解釈さえする向きもあるけど、



本当にそうなんだろうか?





わたしたちが「憎悪」ゆえに求める「人間関係」は、

ほんとうにわたしたちが求めるものなんだろうか?




まだ、答えは出ていません。








2017年5月11日木曜日

お通じ解消のためにしたこと&発酵食品(水キムチ、甘酒)づくりしてみた♥



便秘解消しました!


荒れて吹き出物まで出ていた肌が、
よーやく元通りに。。。!!!

うれしい。。。。





何が良かったのかわかりませんが、
変えたことをあげてみます。


イロイロと「取り込みすぎ」が原因じゃないのかという自覚がありましたので、
やったことは大きく分けて二つ。

取り込むものの質を選び、減らし、
とにかく出すことを最重要課題とする!!



【情報系】
・情報の取り込みの制限(SNS離れ)
・blogでアウトプット

・↑に通じますが、内観
便秘をどーにかしたい!内観してみた。
自分を信じて守り通すことができるだろうか
きたものは全部出す。現在脳の排水中。



【食べ物系】
・食生活の変化(ジャンクを減らし、菜食中心に)
・食事量を減らす(空腹感がないなら食べない)
・乳酸菌飲料を取る(ミルミル♥好き。。)
・甘酒づくり&水キムチづくりに挑戦(発酵食品への目覚め♥)







情報と食べ物は別のもののようでそうでもなく、
すごく密接に繋がってると思う。

いい子ぶりっこと悪い子ぶりっこ
↑これなんか、そのままリンクしている笑


頭の中にやたらめったら要らないものを取り込むと、
それによって思考→感情が乱れ、行動がぶれ、
要らないものまで口に入れちゃう破目に。


逆に、
必要ないものOR必要以上のものを身体に取り込むと、
クリアな思考が乱され、
イライラしたりぼーっとしたりする。


相乗効果というか、悪循環にはまるということが分かりました。



落ち着いて、
何が必要なのか自分としっかり対話しながら選ぶ余裕、
これが大事なのだと思います。




それでね、

これをきっかけに、
発酵食品づくりにチャレンジ。

っていっても難しいものはできないし、

ずっと前に買っておいた米麹(賞味期限3年近く切れ)で甘酒をつくる、
そして、家にあるものでできそうかつすごく乳酸菌が多いという水キムチをつくることに!

水キムチ。漬けたばうかりの段階。
野菜は、大根と人参。



結果からいって、
両方たぶん失敗。。。。



甘酒は、甘さが足りない。

理由は、玄米で作ったことと温度管理(炊飯器)がうまくできなかったことかと思われます。かなりいい加減にやったから、高温になりすぎたかな。。(え?期限切れのせい?)
でも、味が薄いとはいえ普通に飲めるので飲んでます。
ご飯がわりとかにして。
あんまり甘くないけどお腹にはいい感じがする。



水キムチは。。。

ちゃんと分量も量ってつくったんだけどなぁ。
発酵しない。
いつまでたってもぶくぶくしない。(゜.゜)
敗因は、密封できない容器に入れてやったことかなぁ。
いつまでたっても発酵している様子がないので、一日経ってからサランラップで密封したんだけど、遅かったのだろうか。
それとも他の理由が???
とりあえず漬け汁は捨てて(くっそーもったいない)冷蔵庫で保管しポリポリ食べてます。



またチャレンジします。


甘酒は、次は白米でトライする。(賞味期限内の米麹でな)
水キムチは、密封はもちろんのこと用具の殺菌もちゃんとやろう。



―――――――――――――――――



発酵食品好きなんだけど、
スーパーではちゃんとした発酵食品ってなかなか手に入らないじゃない?

味噌とか納豆でも発酵止めで菌は死んでるだろうし、
キムチだってよくわからない液体に漬けられた浅漬けみたいのが多いし。
ヨーグルトだってそうだよね。



家で気軽にできたらいいなって思ってたけど、
意外に簡単そう。

と思ってやってみたら思ってたより難しそうだけど笑


楽しかったのでよかったです。



そんなこと思ってたら、
NHKで「きょうから発酵ライフ」っていうのやってて、
今日は酒粕回だったんだけど、面白かった♥♥


沖縄では酒粕ってあんまりなじみがないのね。
粕汁とかも飲んだことないし。

でも知り合いの方からいっぱい分けてもらえそうなので、
COOKPADとか見ながらいろいろ試してみたいと思います。




正直、この世界には前から興味はあって、
でも難しそうだからって材料は買っても挑戦したことなかったのね。
だからこの機会にやってみることができて良かったです(*´▽`*)

便秘、このためだったのかなとか思ったりして笑




梅雨が完全に明けたってなったら、
今度は干し野菜にもチャレンジしたい!
(実は、前記事に書いた切干大根、三日で黒くカビちゃって涙)

何度かチャレンジしてはいるんだけど、毎度翌日雨降ってくるんだよな。
湿度あがってカビ菌さん大繁殖みたいな。





わたしの場合、なるべく(使いすぎている)目と頭を休めたいので、
手を中心に身体を使うことを心がけたいところ。

発酵食品やその他の調理、下ごしらえは、それにちょうどいい作業になりそうです。






2017年5月8日月曜日

わたしはいつまで日記を書き続けるんだろうか


書けるうちに、書きたいうちに書いておきたい。全部。


今思うことは今しか書けない。
臨場感が消えてしまうだろうから。


苦しくて毎日泣いて泣きすぎてティッシュひと箱を一日で使い切り、
もう無駄使いだからとトイレットペーパーで代替し、
最終的にはバスタオルで涙と鼻水を拭いていたときの感情は、
今では思い出せないから。




わたしは、どんどん変わっていくだろう。

感じ方もものの見方も変わっていくだろう。



今とはまるっきり違う方向へと変わっていくだろう。
わたしはそれを望んでいる。



そのときにはもう書きたくないかもしれない。

書くのは無駄だと思うかもしれない。
わたしの言葉は多くの人にとって理解しにくいものになっているかもしれない。
もっとしたいこと、優先したいことができているかもしれない。


いやわたしにとって「書くこと」は、
人生の中でとても重要な行為であると思うので、
そのときもきっと言葉を紡ぎ続けるだろう。


が、今のかたちではないかもしれない。




いつまで今のかたちで毎日の心境を綴り続けるのだろうか。
よく飽きもせず。


あなたもいつまで読み続ける?笑






今はわからないことが、
そのときにはわかるようになっているだろう。

それが楽しみだ。



もっと静けさの中にいれるだろうか。


自分をもっと知ることができているだろうか。



自分を大切に、
一心に想うことができているだろうか。

今よりもずっと。




このblogは、

今の自分が自分をより知って自分を表現していくための手段だし、
これから先の自分がこれまでの自分のことを振り返るための手段だし、
知らない誰かが読んで何かを感じるためのきっかけになればいい。

ならなくてもいいけど。




きっと届く人には届くし、
永遠に触れ合わない人のほうが多いのだ。


一瞬だけでもかすることができたのなら、
それだけで奇跡と呼んでもいいかもしれないね。




でも

その奇跡に感謝しよう、なんて絶対言わんよわたしは笑


わたしは衝動に突き動かされるだけだし、
たまたまとたまたまが重なって、
ただの偶然を、人によっては気づきや行動のきっかけとすることもあるだろう。


うまいこと使われるだけ。
人生に。
流れに。


笑っちゃうね。






2017年5月5日金曜日

「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」



もともと人間が好きじゃないんだよな。

だから、人間である自分が好きじゃないんだよな。



小さい頃にNHKでやっていた子供番組を観ていた影響なのか、
わたしは「人間ってろくなことしないな」という思いがすごく強い。

いや「ろくな存在じゃないな」だな。



木を切って荒地にして
興味本位、もしくはお金になるから動物を乱獲して
たくさんのガスを出して
汚れたものを綺麗にするために洗剤をドバドバ使って海や川に流し
整地するといって土をコンクリートで埋める

地球にとって、嫌なことばっかりするよな、って思う。

心も汚いし、もうまとめてみんないなくなったほうがいいんじゃないの?




本当に本当に、
人間って自然の秩序を乱して壊すためにいるの?
って何回も思ったし悔しかった。
悲しくて落ち込んだ。

わたしなんで人間なの?みたいに、自分の種が嫌だった。
憎んでたと言っても過言ではない。



まあ、同じ番組を観てた同世代の子供たちは何万人といただろうし、
みんながみんなわたしと同じように自分が人間であることを恥じてるとは思えないので、たぶん番組のせいじゃないです。



これはわたしの性質的なことです。


ナウシカやもののけ姫的な世界観が、
なじむかどうかの話です。



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一回り年上の元彼が、歯磨き中に水を流しっぱなしにしていた。(しかも結構な量)

最初は、そんなこと注意とかしたくないし、
説教かよとか思われたくなかったから言わなかったんだけど、
どうしても気になったから横からきゅって止めたの。
(なるべくさりげなく止めたつもりだった)

そしたら「なんで」と言われた。

ruは「水、もったいないじゃん」と言った。


彼は「俺、実家でも水止めろとか言われてないし。これぐらいよくない?じゃあ俺が水道代払うよ。別にruが嫌だったらruが見てるときは流しっぱなしにはしないけど」と言った。
すごく嫌味っぽく。
(わたしはそう感じたけど…。今考えてもやっぱり思いっきり皮肉だったと思う)


ruは「うん、ごめんね」と謝った。
すごいむかついたし悲しかったけど。

腹立ったし、なんでか泣きたいくらいに悔しかったけど、
謝って洗面所から離れた。



そのとき、元彼とはうまくいっていなかった。

一緒にいて心地いいとか、フィットするという感じがなくて、
でもお互いに笑顔をつくってデートらしいことをしてご飯を食べて、
まあそういう末期の状態だった。

だから彼もそういう棘のある言い方をしたのかもしれない。



だけど、

そのとき、「ああこの人とは致命的にダメだ。感覚が違う」と思った。



彼は、わたしが節約のために水を流しっぱなしにするなと言っていると思ったかもしれない。
もしくはわたしが「いい人仮面」で、いわゆる道徳をタテに彼を説教しようと、批判しようとしていると思ったのかもしれない。



でも、わたしは、

水を命だと思っていない態度が、つらかったのだ。

地球を生きている存在だと感じていないことが、
見ていて悲しかったのだ。



自然や人間以外の生き物に対して、
そういう扱いをする人はたっくさんいる。超いっぱいいる。


でも、身近な人だと、我慢できなかった。

我慢するなら、一生我慢することになる。

生き方の根幹に近い部分なのに、それを無視して生きていくことになる。





「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」




それはとっても大きな隔たりで、
感じない人には絶対にわかってもらえない。


お利口さんで言ってるんじゃないのに。



「へー、感受性豊かだねえ」
「へー、想像力あるねえ」
「へー、ただのモノじゃん?擬人化しすぎじゃない?」
「へー、まじめだねえ、優しいねえ」

それくらいのものだろう。




だって、痛くないのだから。






わたしは例によって自分の感覚を軽視して生きてきたし、
自分が憎んでいた「人間」の側面に
積極的に同化しようとしてきた。

じゃないと葛藤が大きすぎて苦しい。


わたしはわたしが憎んでいる「人間」なんだ。


自分だけ綺麗みたいに思うな。




その感覚を、
その感覚を憎み忌み嫌って捨てたときの感覚を、
今思い出している。



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わたしは一人でよく近くの海に行く。

GW中も、
仕事帰りでも仕事の前でも休日でも、
わたしはよくその海でぶらぶらしている。



自然のビーチというのは、
着替える場所もないし潮だらけになっても洗えないし、
現代人の遊び場には使い勝手が悪いものだ。


十年前くらいに大がかりな整備が入り、
埋め立てや護岸の工事、
傍にはレストランや公園、そして水道もトイレも整備された。

当時は地元でも賛否両論あったけど、
それは現実になった。


気軽にぶらっときて、
便利に使える施設になったと思う。

だから地元の人だけじゃなくて観光客もいっぱいいるし、
ビーチパーティーをしている人も、
海外からウェディング写真を撮りにきた人たちもよく見かける。



そこで写真をとってSNSに載せたり、
blogで紹介している人もたくさんいるはずだ。



夕日の時間帯には、
たくさんの人たちが空にカメラを向ける。




綺麗だね、
水が透き通ってて砂も白くて、

あ、魚もいるよ。





わたしが小さかった頃、
もう20年も前になるけど、

すぐそのへんを歩いていたら、貝やウニがたくさんとれた。
拾ったそいつらをバケツに入れて家で割って食べるなんてよくやってた。


そのへんの岩陰には、
青い小魚以外にも、熱帯の色とりどりの魚がいたし、
ナマコやカニがいたし、
イソギンチャクだっていたし珊瑚も白くなっていなかった。

まだ生きていた。




今は、引いた砂浜をずーっと沖のほうまで歩いても、
20年前にはいた生き物たちがいない。



20年前にも、
祖父母や父から、
「昔はここにはもっとたくさんの魚がいたんだよ」と言われてた。


父は、幼い頃に父のおじいさんといっしょに海に行き、
おじいさんが手に持っていた網を波うち際に投げてたくさんの魚をとっていたと話してくれた。

小さくて目もよかった当時の自分にもとても見えなかったけど、
おじいさんには魚の群れの動きが見えていたんだな、と言っていた。



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わたしたちはどんどん自然から離れて、

もちろん魚がいても見えないし、
いやそもそももう魚なんていない。


星を見て方向を見ることも、
風の湿度で明日の天気を当てることもできない。

そんな能力はみんな失った。




わたしたちにとっては、
空も海も虫も鳥も全部敵だ。

支配する対象だ。



海が綺麗ね、と言っても、
うわっつらしか見ていない。

綺麗な海が好き、だけど海を殺すことには無感覚。


自然を守ろうなんて言うな、傲慢にも。
うちらに守れるはずない。
驕りだ。





だからもし、
地球が人間のことが嫌いでも当然と思う。


だからわたしは人間であるわたしが嫌いなのだ。

人間でごめんなさい、と思う。





ごめんなさいって思っても仕方ないけども。



人間って本当に、
地球を壊すために生まれてきた存在なんだろうか。
(流れの中で、癌としての役割を果たしているんだろうか?)


そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


そうじゃないかもしれない可能性をとりあえずは信じたい。
(じゃないと話が終わってしまう)


自然の中で調和をとれる存在に、
どうやったらなれるんだろうか。

なれるんだろうか。



わたしはとりあえず、今は死なない。

だから、せめてどうにか地球の邪魔にならないように生きていきたい。




そう思って過ごすGWです。