2017年6月20日火曜日

なんで?って聞かれても理由なんかないよ



拒絶されるのが怖い。

その怖れは、わたしの中にまだ根深くある。

焦りが排除できない。



タイミングを見計らい、
相手の都合を考慮し、
今までの流れから不自然ではないかを考える。

相手のためではなく、
自分が相手から、もしくは他者視点でどう見えるかを気にして。


客観性というのは本当にありえるのだろうか。
可能な概念なんだろうか。





たぶん人間すべてが経験済みであるはず。
未来のこと、
未確定のこと、
分からないことに対して「わかっている」と感じる感覚は。


誰かに「なんでそう言えるの?」と尋ねられても、
根拠をもって説明することはできないけれど、
「でもわたしはこうだと思う」と言いたくなる感覚は。


ただそうしたい衝動は。




思考の結果じゃない。

感情的になっているわけでもない。


わたしの中にもう既に答えがあって、
特定の状況におかれたときに「思い出している」だけなのだ。

もうわたしの中に答えがあるのだ。
絶対の答えが。
「なぜ」なんて問いは意味を持たない。


ただ「そうだから」だ。




拒絶される、
たぶん正確には「拒絶されたと感じる」ことが怖いのは、
やっぱりまだ自分の中の答えを信じられていないから。

他人は関係ない。

わたしがわたしを信じられていないから起こる怖れでしかない。



「間違いたくない」
「失敗したくない」

でも、自分の中の答えを外に出したことが、
「間違い」や「失敗」であることがあり得るだろうか。



自分の中の答えに×をつけて、
何回も嘘をついてきたから自分を信じられなくなった。

自分をわからなくなった。





拒絶されてもいい、と思いたい。


相手がわたしを拒絶したとしても関係ない、
傷ついたりしないよ、
まずはそう思えるようになること。


その次のステップが、
「傷つくって何?」ってなることであり、
そんなこと気にもしなくなることかな。




なんで?って聞かれても理由なんかないよ。

そばにいたい、
見てることでわたしをあげたい。




2017年6月16日金曜日

繭の中



ブログが書けないのは、
主張したいことがないからだ。


誰かと共有したいことがない。




これはどうしたものか、と思う。


何もない。

あれがいいよ、だとか、
こんなことをするなんておかしいよね、とか。

実生活では、たとえば家族とニュースなんか見てる場では、
「こんなの変だよね、ヽ(`Д´)ノプンプン」みたいなことを感情含めてさらすのですが、
落ち着いて文章にまとめられるほどには、
わたしの頭の中には何もないのだ。



ただ、

悲しい
気持ちいい
じわーっとくる
苛々する
力が入らない
力強く感じる
溶けていきたい
泣きそう
あの感覚をもう一度感じたい

とか、その一瞬があるだけで。



それじゃあ言葉に切り取って、
文章としてまとめ形にするなんてできない。




疲れてるのかな?



わたしが今願うのは、
自分の内側ともっと強く繋がりたいということだけで、
感じたことを見落とさずに全部を実行に移してあげたいということだけで、
それ以外にはない。



それ以外が邪魔くさく感じられる。



何言ってんだこいつ、ってなる。



わたしの世界はどんどん狭く狭く、
静かにではあるけれど
動きがなくなっているようにも見えるし、
繭の中に入り
外と切り離されていくようにも感じられる。



毎日静かに雨が降っていて、
それが日によっては土砂降りに雷が響き、
壁の隅から水がしみ込んでくる。



淋しいし孤独だし自信がない。

でも、そのままでいたい。



自分にとって不自然じゃない程度に行動を起こし、
(それが料理だったり草むしりだったり人と話すことだったり創作することだったり)

小さなことに心を動かして
毎日を生き延びていこう。



※あ、別に落ち込んでるわけじゃないよ。





2017年6月14日水曜日

きもちよくなる服



一時期の「服がほしい」熱がおさまり、
買い物に出向くのがちょっと億劫になっているくらいの今日この頃。



とはいえ、
ユニクロだろうとショッピングセンターだろうと、
別の用事のついでに寄ったりすると、
それなりに楽しくウィンドーショッピングをするわけですが、
(気に入ったら買います)
切実ともいえるような欲望はなりを潜めている感じです。


おそらく、クローゼットの中の洋服が、
自分の「今」に合っているからだと思います。

あるものたちのほとんどすべてが、
それ単独で自分にフィットするもの(試行錯誤せずとも似合う)であることや、
それ単独で気分を良くしてくれるもの(別の自分になりたい等の自己否定からくるものではなく単純に好き)であることが、
わたしを満たしている気がします。



ここらへんはやっぱり精神論になりますが、
結局服が「欲しい」も「捨てたい」もすべて、
今の自分の等身大にあった状態へと環境ごとtransformしたいがためのこと。

簡単にいえば、
「ほっとしたい」とか「くつろぎたい」ってことだと思う。
「今の自分にOKを出したい」と言ってもいい。



外側に意識をとられると、
自分自身の感覚に耳をすませることはできないし、
だからずっと頭の中がざわざわして落ち着かず苦しい。

集まってくるもの(服や人や環境)も、自分を幸せにさせないものばかり。



わたしたちはどんな分野に興味を持つにしろ、結局、
ほっとしてくつろいで、
本来の自分の感覚で世界を見たいだけだからなぁ。

だから洋服について話そうとしてもそこからは離れられないんです。




今のわたしの選択基準は、
見た瞬間、触った瞬間幸せな気分になるもの。

きゅんとしたり、
「これ好き」な感じがじわーっと身体に広がっていくものを選ぶようにしてます。




好きなもの同士は割と組み合わせやすくて、
なぜかというと「好き」なものの中にも「動」と「静」、
「攻め」と「受け」があるから。
少しだけでもアイテムにバラエティがあれば、組み合わせも多くできる。




好きなものを身につけたときには、
「足したい」のか「これで十分」なのか「崩したい」のか、
そのときのフィーリングを重視する。


バランスが上すぎないかとか、
下だけうるさくないかとか、
いやそもそも今そんなに「攻めたい」気分か?とかね。

結果「もっと地味にしよう」って着替えることもあるし。
逆に「今日は色とキラキラの助けを借りよう」となって、カラフルな服やピアスをつけることもあるし。




先日niko and...でオーガニックコットンの白い9分袖Tシャツを買った。
触ったときの柔らかさと気持ちよさに惹かれた。

PDロマンス・骨格ウェーブの特徴からすると、
似合わないTシャツ。

でも、PDナチュラルの特徴が混ざるとOK要素が増し、
髪をアップにしたりサイドに下ろしたり、
大きいアクセサリーをつけるととても自分らしく感じた。

しかも薄いコットンの下にタンクトップや黒いシームレスのブラが透けていたら、
いやむしろノーブラだったら。。。

それを想像したら、
わたしの好みの見た目だった。


いやもちろん、下着を透けさせたりノーブラで外出なんかはできませんよ。
だけど、それが寝るときだけであっても、
自分が気持ちよくなる感覚を味わう機会を持ちたいのです。


気分を変えるために、
バカげたORセクシーなデザインのタトゥーシールを貼ってみたり。
そんなんで十分なのですけど。



こんな風に過ごして遊んでいる毎日です。





2017年6月7日水曜日

無性になりたい(心だけでも)


わたしにとってsexualityはずっと大きなテーマでした。

その認識が大きく変わりつつあるので、
ここでシェアしたいと思います。



【女性性開花】とか、
【セクシュアリティの解放】とか、
世の中では(ネットの中では)よく見かけます。

【女神が男性を導く】とかな。



わたしはそう思っていません。



それも、もののケのしおりちゃんのお話を読んでから変わってきた、
というのが正直なところなのですが、
わたしたちが当然に認識している「男女」の概念、
これ自体がすべての誤りのもとなのではないか?と感じています。




性があること、有性であること。

肉体が物理的に違い、
そこから精神的な違いが生じることももちろん理解できる。



でも、わたしたちが生まれてから身につけていく
多くのシバリの中で、
「性」は非常に大きな割合を占めているし、
生命の根っこ部分にあり拘束力が強い。



「女は女に生まれるのではない 女になるのだ」
という言葉がありますが、
それがフェミニズムの視点だけからの言葉なら片手落ちで、

「男は男に生まれるのではない 男になるのだ」
も同時に認識されるべきだと思います。


二元の概念は対として存在するものだし、
どちらの性がまとう「仮面」も不自然です。
同じだけの分量で重いです。


殴るほうも、殴られるほうも十分に病んでいます。




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男親が見る娘、
女親が見る息子、
どちらも同性の子を見るのとは違うといいます。


たとえばおしゃまな女の子が、
お父さんの膝に乗り甘えて何かをねだっているのを見て、
「女の子は小さいときから女だね」なんて言ったりしますが、
そのときのお父さんの顔を見れば、
きっと見るに堪えないほどデレデレだと思います。

女の子は、小さい頃から女親をけん制することもあると思います。


それが、女のやり方だからです。



わたし自身の幼い頃を振り返ることは
残念ながらできませんが、
つい最近までの自分の在り方を省みるに、
たぶん幼い頃から無意識に学んできた結果だと思います。



ひとことで言えば、
女としてのわたしの欲求は「男の気を惹きたい」です。

愛され気にされ大事にされ守られたい。です。


そのためのやり方はなんでもいい。
とにかく注目をあびて、誰よりも目立てばいいのです。

それで異性の気を惹く。

相手をいい気持ちにさせて、見返りを得る。

報酬は、「気をかけてもらう」でもいいし、
「お金」や「サービス」でもいい。
なるべく多くの「保険」をかけ、「保護」を受けられる可能性を消さないように。


そのためにライバルとなる他の女性を意識し、競争します。
嫉妬されると自分の価値が上だと感じられます。


そのやり方が不得意だ、という理由で、
闘いから降りたようにふるまう人もいますが、
上に挙げたようなやり方が気に障ったり、
自分と比較してしまうようであれば同じです。





男のやり方は違います。

上の例で言うと、
「媚びられる」ことでエネルギーを得ます。

俺が上だ、俺のほうが強い、俺に従うものがいる。

その事実によって自信を得ます。


ヒーローになりたい、
尊敬されたい、
褒められたい、
すごいと言われたい、
あなただけだと言われたい、
支配したい、


なんでもいいけれど、全部自分の優位性を感じたい欲求。

実はいつでも揺らぎそうになる自己価値を、
どうにかして保ちたいという切実な気持ちなのでしょう。



娘が自分に甘えてくる様子は、
完全に男親の欲求を満たすものだと思います。




男のやり方の支配は、上からきます。
女のやり方の支配は、下からきます。

自分と同じ欲求を持つ同性は敵です。



男と女、どちらがいい(マシ)と言えるでしょうか。
いや言えない。(反語)



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勝った負けたの比較は、
かなり深いところまでしみこんでいて、
わたしは最近までそれに気づいていませんでした。



ここまで読んでくださった方の中には、
上で挙げた親子の例を不快に思われた方もいるかなと思います。

そんなの当たり前じゃないの?
と思われた方もいるかと思います。



確かにこの世界では、
どの地域に行こうともそれが「普通」だと思います。

でもキモくないですか?



わたしたちは子供の頃から、
「相手から得る」ことを無意識でずっと意図し続ける社会にいます。
損をしないように。
できるなら一人勝ちできるように。

自分一人では自分を満たせないから。



あなたはわたしのものよね?
おまえは俺のものだよな?

支配です。

お互いに、演じることを強い合うのです。


このメンタリティは、根深いところで「性」と結びついていると感じます。




「性」を汚いものとする、というトリックがあり、
「性」を聖なるものとするトリックがあります。

どちらも「性」が際立ってきますよね。



でも、ほんとうは、

「無性」である自分、
誰にも媚びなくていいし強さを証明しなくていい自分、
ただの生命としての自分、

を思い出し、取り戻していったほうがいいのじゃないかなと思います。



途中で、

どれだけ自分のマインドが概念に汚されているか
嫌になるほど見ることになるでしょうが、
【女性性開花】を望むよりも本来の自分の透明さに近づく気がします。


演じること一切を捨てて。






2017年6月6日火曜日

トンネルを抜けてみて


久しぶりの夜スタバ。
with tallチャイラテ。


なんで久しぶりかというと、
3月の終わりから4月、5月にかけてしばらく体調がよくなくて(主に便秘)、
水くらいしか取り入れたくなかったからです。

でもなんとなく来たくなったので、
久しぶりにスタバでPCを開いているというわけです。




2、3、4月は、
わたし的には怒涛の勢いでblogを更新していたのですが、
読んでくださっていた方はお分かりかと思いますが、
すんげー苦しかった時期でした。


「特に何があったわけでもないのに苦しい」という苦しさです。

毎日ブルー。
身体が重い。
哀しい。
何をしたら抜けるのか分からない。
先が見えない。


だからと言ってお酒やカラオケで気晴らししたり、
誰かに話してすっきりできる類のものでもない。

自分一人で向き合って、
具体的な手は打てないのだけどそれを受け入れて、
ただただ毎日を過ごす。


そんな日々だったと記憶しています。




もし支えを求めるなら誰に求めたいか、
と考えたとき、

それは親でもないしきょうだいでもない、
職場の人でもなければ知らない誰かでもなかった。


それはいつでもJでした。


でもいないし笑



じゃあわたしが自分で引き取るしかない、

何度もその結論にいたっては、
壁にもたれかかるのをやめて自分の足でよっこらしょっと立ち上がる。


そんな日々。



それを抜けたなあ、
楽になってきたなあ、といつしか感じ始めて、
またそれが自然なものとなってきて、

今思うのは、

わたしはこの数か月の間で、
結構大事なものを取り戻したんじゃないか、ということです。


気づかなかったけど。



それは、
幼かった頃の自分の感じ方を信じたい、という意志です。


こんなの持っててもしょうがない、
痛くて悲しいだけ、
自分が弱く感じられてしかたなくて、
損をしているように思えた。


だから、押し込めて殺そうとして、
なかったことにして笑おうとしたのだけど、

後ろめたさや罪悪感だって
「仕方ないじゃん、生きてくためなんだから」って嘘ぶいて、
自分を貶めることを是としてきたのだけど、

今、その自分の感性を「それでいいもの」だとしたい。





わたしはそうやって生まれてきたのだから、

周りになんと言われようと、
社会的には役立たずだろうと、
既存の枠組みからしたら望まれない在り方だろうと、
わたしはそのままでいいんじゃないか?と思えるようになった。




地球が痛いと自分も痛いと感じる自分の感性を
貶めて貶めて否定して自分を汚して、
心が望む世界を望むことを諦めさせようとしなくてもいいんじゃないか。



それは一言で言うと、
「自分が望むものを素直に見てもいいよ」と
自分に許可を出すことでした。


「人間でごめんなさい」
「汚れててごめんなさい」
「無力でごめんなさい」
「わたしがいてごめんなさい」

そういう気持ちが強すぎて、
望んだり願ったり、言葉に出すことさえ自分に許していなかった。


できないから。

何も変えることなんてできないと思うから。


そういう自分を見つけて、
ああそうか、わたしはそういう風に感じていたな、
そういう風に感じているんだな、
と、ひとつひとつ思い出していく時間を、わたしは過ごしていたんだと思います。



そして、
「どうせわたしには何もできない。ごめんなさい」
からスタートするんじゃなくて、

もっと素直に

「何かできることはないだろうか」
「地球に喜んでもらえることはないだろうか」
から、問いを、願いをスタートさせたいと思うようになりました。



それは同時に、
「わたしのことなんか誰も分かってくれない」
とひねくれていた自分を、

「同じ感性を持つ人と繋がりたい」
と変えていくのと同時で。


これも、よく考えたら今まで諦めていた望みなんですよね。
わたしはいろんなことを最初から諦めていたんだなあ、
と気づきます。
傲慢なことだったと思います。



そういう自分に気づいたことで
別に何か大きく現実が動いたわけでもないのですけど、
(いや、少し動きました)
今は、押し殺してきた自分の感性を生かしてあげたい、と思っています。


敏感で神経質に見られるかもしれないけれど、
それは実際そうなんだろうし、それでいい。

ただ、わたしはもう自分を否定しないよ、というだけで。



それだけでも地に足が着いた感じがするし、
ただ普通にうれしいのです。

まだ先があるのはわかっているのだけど、
しばらくはこの調子で、
次のトンネルまで淡々と歩いていこうと思います。