2017年6月20日火曜日

なんで?って聞かれても理由なんかないよ



拒絶されるのが怖い。

その怖れは、わたしの中にまだ根深くある。

焦りが排除できない。



タイミングを見計らい、
相手の都合を考慮し、
今までの流れから不自然ではないかを考える。

相手のためではなく、
自分が相手から、もしくは他者視点でどう見えるかを気にして。


客観性というのは本当にありえるのだろうか。
可能な概念なんだろうか。





たぶん人間すべてが経験済みであるはず。
未来のこと、
未確定のこと、
分からないことに対して「わかっている」と感じる感覚は。


誰かに「なんでそう言えるの?」と尋ねられても、
根拠をもって説明することはできないけれど、
「でもわたしはこうだと思う」と言いたくなる感覚は。


ただそうしたい衝動は。




思考の結果じゃない。

感情的になっているわけでもない。


わたしの中にもう既に答えがあって、
特定の状況におかれたときに「思い出している」だけなのだ。

もうわたしの中に答えがあるのだ。
絶対の答えが。
「なぜ」なんて問いは意味を持たない。


ただ「そうだから」だ。




拒絶される、
たぶん正確には「拒絶されたと感じる」ことが怖いのは、
やっぱりまだ自分の中の答えを信じられていないから。

他人は関係ない。

わたしがわたしを信じられていないから起こる怖れでしかない。



「間違いたくない」
「失敗したくない」

でも、自分の中の答えを外に出したことが、
「間違い」や「失敗」であることがあり得るだろうか。



自分の中の答えに×をつけて、
何回も嘘をついてきたから自分を信じられなくなった。

自分をわからなくなった。





拒絶されてもいい、と思いたい。


相手がわたしを拒絶したとしても関係ない、
傷ついたりしないよ、
まずはそう思えるようになること。


その次のステップが、
「傷つくって何?」ってなることであり、
そんなこと気にもしなくなることかな。




なんで?って聞かれても理由なんかないよ。

そばにいたい、
見てることでわたしをあげたい。




2017年6月16日金曜日

繭の中



ブログが書けないのは、
主張したいことがないからだ。


誰かと共有したいことがない。




これはどうしたものか、と思う。


何もない。

あれがいいよ、だとか、
こんなことをするなんておかしいよね、とか。

実生活では、たとえば家族とニュースなんか見てる場では、
「こんなの変だよね、ヽ(`Д´)ノプンプン」みたいなことを感情含めてさらすのですが、
落ち着いて文章にまとめられるほどには、
わたしの頭の中には何もないのだ。



ただ、

悲しい
気持ちいい
じわーっとくる
苛々する
力が入らない
力強く感じる
溶けていきたい
泣きそう
あの感覚をもう一度感じたい

とか、その一瞬があるだけで。



それじゃあ言葉に切り取って、
文章としてまとめ形にするなんてできない。




疲れてるのかな?



わたしが今願うのは、
自分の内側ともっと強く繋がりたいということだけで、
感じたことを見落とさずに全部を実行に移してあげたいということだけで、
それ以外にはない。



それ以外が邪魔くさく感じられる。



何言ってんだこいつ、ってなる。



わたしの世界はどんどん狭く狭く、
静かにではあるけれど
動きがなくなっているようにも見えるし、
繭の中に入り
外と切り離されていくようにも感じられる。



毎日静かに雨が降っていて、
それが日によっては土砂降りに雷が響き、
壁の隅から水がしみ込んでくる。



淋しいし孤独だし自信がない。

でも、そのままでいたい。



自分にとって不自然じゃない程度に行動を起こし、
(それが料理だったり草むしりだったり人と話すことだったり創作することだったり)

小さなことに心を動かして
毎日を生き延びていこう。



※あ、別に落ち込んでるわけじゃないよ。





2017年6月14日水曜日

きもちよくなる服



一時期の「服がほしい」熱がおさまり、
買い物に出向くのがちょっと億劫になっているくらいの今日この頃。



とはいえ、
ユニクロだろうとショッピングセンターだろうと、
別の用事のついでに寄ったりすると、
それなりに楽しくウィンドーショッピングをするわけですが、
(気に入ったら買います)
切実ともいえるような欲望はなりを潜めている感じです。


おそらく、クローゼットの中の洋服が、
自分の「今」に合っているからだと思います。

あるものたちのほとんどすべてが、
それ単独で自分にフィットするもの(試行錯誤せずとも似合う)であることや、
それ単独で気分を良くしてくれるもの(別の自分になりたい等の自己否定からくるものではなく単純に好き)であることが、
わたしを満たしている気がします。



ここらへんはやっぱり精神論になりますが、
結局服が「欲しい」も「捨てたい」もすべて、
今の自分の等身大にあった状態へと環境ごとtransformしたいがためのこと。

簡単にいえば、
「ほっとしたい」とか「くつろぎたい」ってことだと思う。
「今の自分にOKを出したい」と言ってもいい。



外側に意識をとられると、
自分自身の感覚に耳をすませることはできないし、
だからずっと頭の中がざわざわして落ち着かず苦しい。

集まってくるもの(服や人や環境)も、自分を幸せにさせないものばかり。



わたしたちはどんな分野に興味を持つにしろ、結局、
ほっとしてくつろいで、
本来の自分の感覚で世界を見たいだけだからなぁ。

だから洋服について話そうとしてもそこからは離れられないんです。




今のわたしの選択基準は、
見た瞬間、触った瞬間幸せな気分になるもの。

きゅんとしたり、
「これ好き」な感じがじわーっと身体に広がっていくものを選ぶようにしてます。




好きなもの同士は割と組み合わせやすくて、
なぜかというと「好き」なものの中にも「動」と「静」、
「攻め」と「受け」があるから。
少しだけでもアイテムにバラエティがあれば、組み合わせも多くできる。




好きなものを身につけたときには、
「足したい」のか「これで十分」なのか「崩したい」のか、
そのときのフィーリングを重視する。


バランスが上すぎないかとか、
下だけうるさくないかとか、
いやそもそも今そんなに「攻めたい」気分か?とかね。

結果「もっと地味にしよう」って着替えることもあるし。
逆に「今日は色とキラキラの助けを借りよう」となって、カラフルな服やピアスをつけることもあるし。




先日niko and...でオーガニックコットンの白い9分袖Tシャツを買った。
触ったときの柔らかさと気持ちよさに惹かれた。

PDロマンス・骨格ウェーブの特徴からすると、
似合わないTシャツ。

でも、PDナチュラルの特徴が混ざるとOK要素が増し、
髪をアップにしたりサイドに下ろしたり、
大きいアクセサリーをつけるととても自分らしく感じた。

しかも薄いコットンの下にタンクトップや黒いシームレスのブラが透けていたら、
いやむしろノーブラだったら。。。

それを想像したら、
わたしの好みの見た目だった。


いやもちろん、下着を透けさせたりノーブラで外出なんかはできませんよ。
だけど、それが寝るときだけであっても、
自分が気持ちよくなる感覚を味わう機会を持ちたいのです。


気分を変えるために、
バカげたORセクシーなデザインのタトゥーシールを貼ってみたり。
そんなんで十分なのですけど。



こんな風に過ごして遊んでいる毎日です。





2017年6月7日水曜日

無性になりたい(心だけでも)


わたしにとってsexualityはずっと大きなテーマでした。

その認識が大きく変わりつつあるので、
ここでシェアしたいと思います。



【女性性開花】とか、
【セクシュアリティの解放】とか、
世の中では(ネットの中では)よく見かけます。

【女神が男性を導く】とかな。



わたしはそう思っていません。



それも、もののケのしおりちゃんのお話を読んでから変わってきた、
というのが正直なところなのですが、
わたしたちが当然に認識している「男女」の概念、
これ自体がすべての誤りのもとなのではないか?と感じています。




性があること、有性であること。

肉体が物理的に違い、
そこから精神的な違いが生じることももちろん理解できる。



でも、わたしたちが生まれてから身につけていく
多くのシバリの中で、
「性」は非常に大きな割合を占めているし、
生命の根っこ部分にあり拘束力が強い。



「女は女に生まれるのではない 女になるのだ」
という言葉がありますが、
それがフェミニズムの視点だけからの言葉なら片手落ちで、

「男は男に生まれるのではない 男になるのだ」
も同時に認識されるべきだと思います。


二元の概念は対として存在するものだし、
どちらの性がまとう「仮面」も不自然です。
同じだけの分量で重いです。


殴るほうも、殴られるほうも十分に病んでいます。




―――――――---------------------



男親が見る娘、
女親が見る息子、
どちらも同性の子を見るのとは違うといいます。


たとえばおしゃまな女の子が、
お父さんの膝に乗り甘えて何かをねだっているのを見て、
「女の子は小さいときから女だね」なんて言ったりしますが、
そのときのお父さんの顔を見れば、
きっと見るに堪えないほどデレデレだと思います。

女の子は、小さい頃から女親をけん制することもあると思います。


それが、女のやり方だからです。



わたし自身の幼い頃を振り返ることは
残念ながらできませんが、
つい最近までの自分の在り方を省みるに、
たぶん幼い頃から無意識に学んできた結果だと思います。



ひとことで言えば、
女としてのわたしの欲求は「男の気を惹きたい」です。

愛され気にされ大事にされ守られたい。です。


そのためのやり方はなんでもいい。
とにかく注目をあびて、誰よりも目立てばいいのです。

それで異性の気を惹く。

相手をいい気持ちにさせて、見返りを得る。

報酬は、「気をかけてもらう」でもいいし、
「お金」や「サービス」でもいい。
なるべく多くの「保険」をかけ、「保護」を受けられる可能性を消さないように。


そのためにライバルとなる他の女性を意識し、競争します。
嫉妬されると自分の価値が上だと感じられます。


そのやり方が不得意だ、という理由で、
闘いから降りたようにふるまう人もいますが、
上に挙げたようなやり方が気に障ったり、
自分と比較してしまうようであれば同じです。





男のやり方は違います。

上の例で言うと、
「媚びられる」ことでエネルギーを得ます。

俺が上だ、俺のほうが強い、俺に従うものがいる。

その事実によって自信を得ます。


ヒーローになりたい、
尊敬されたい、
褒められたい、
すごいと言われたい、
あなただけだと言われたい、
支配したい、


なんでもいいけれど、全部自分の優位性を感じたい欲求。

実はいつでも揺らぎそうになる自己価値を、
どうにかして保ちたいという切実な気持ちなのでしょう。



娘が自分に甘えてくる様子は、
完全に男親の欲求を満たすものだと思います。




男のやり方の支配は、上からきます。
女のやり方の支配は、下からきます。

自分と同じ欲求を持つ同性は敵です。



男と女、どちらがいい(マシ)と言えるでしょうか。
いや言えない。(反語)



――――――――――――――――――――――



勝った負けたの比較は、
かなり深いところまでしみこんでいて、
わたしは最近までそれに気づいていませんでした。



ここまで読んでくださった方の中には、
上で挙げた親子の例を不快に思われた方もいるかなと思います。

そんなの当たり前じゃないの?
と思われた方もいるかと思います。



確かにこの世界では、
どの地域に行こうともそれが「普通」だと思います。

でもキモくないですか?



わたしたちは子供の頃から、
「相手から得る」ことを無意識でずっと意図し続ける社会にいます。
損をしないように。
できるなら一人勝ちできるように。

自分一人では自分を満たせないから。



あなたはわたしのものよね?
おまえは俺のものだよな?

支配です。

お互いに、演じることを強い合うのです。


このメンタリティは、根深いところで「性」と結びついていると感じます。




「性」を汚いものとする、というトリックがあり、
「性」を聖なるものとするトリックがあります。

どちらも「性」が際立ってきますよね。



でも、ほんとうは、

「無性」である自分、
誰にも媚びなくていいし強さを証明しなくていい自分、
ただの生命としての自分、

を思い出し、取り戻していったほうがいいのじゃないかなと思います。



途中で、

どれだけ自分のマインドが概念に汚されているか
嫌になるほど見ることになるでしょうが、
【女性性開花】を望むよりも本来の自分の透明さに近づく気がします。


演じること一切を捨てて。






2017年6月6日火曜日

トンネルを抜けてみて


久しぶりの夜スタバ。
with tallチャイラテ。


なんで久しぶりかというと、
3月の終わりから4月、5月にかけてしばらく体調がよくなくて(主に便秘)、
水くらいしか取り入れたくなかったからです。

でもなんとなく来たくなったので、
久しぶりにスタバでPCを開いているというわけです。




2、3、4月は、
わたし的には怒涛の勢いでblogを更新していたのですが、
読んでくださっていた方はお分かりかと思いますが、
すんげー苦しかった時期でした。


「特に何があったわけでもないのに苦しい」という苦しさです。

毎日ブルー。
身体が重い。
哀しい。
何をしたら抜けるのか分からない。
先が見えない。


だからと言ってお酒やカラオケで気晴らししたり、
誰かに話してすっきりできる類のものでもない。

自分一人で向き合って、
具体的な手は打てないのだけどそれを受け入れて、
ただただ毎日を過ごす。


そんな日々だったと記憶しています。




もし支えを求めるなら誰に求めたいか、
と考えたとき、

それは親でもないしきょうだいでもない、
職場の人でもなければ知らない誰かでもなかった。


それはいつでもJでした。


でもいないし笑



じゃあわたしが自分で引き取るしかない、

何度もその結論にいたっては、
壁にもたれかかるのをやめて自分の足でよっこらしょっと立ち上がる。


そんな日々。



それを抜けたなあ、
楽になってきたなあ、といつしか感じ始めて、
またそれが自然なものとなってきて、

今思うのは、

わたしはこの数か月の間で、
結構大事なものを取り戻したんじゃないか、ということです。


気づかなかったけど。



それは、
幼かった頃の自分の感じ方を信じたい、という意志です。


こんなの持っててもしょうがない、
痛くて悲しいだけ、
自分が弱く感じられてしかたなくて、
損をしているように思えた。


だから、押し込めて殺そうとして、
なかったことにして笑おうとしたのだけど、

後ろめたさや罪悪感だって
「仕方ないじゃん、生きてくためなんだから」って嘘ぶいて、
自分を貶めることを是としてきたのだけど、

今、その自分の感性を「それでいいもの」だとしたい。





わたしはそうやって生まれてきたのだから、

周りになんと言われようと、
社会的には役立たずだろうと、
既存の枠組みからしたら望まれない在り方だろうと、
わたしはそのままでいいんじゃないか?と思えるようになった。




地球が痛いと自分も痛いと感じる自分の感性を
貶めて貶めて否定して自分を汚して、
心が望む世界を望むことを諦めさせようとしなくてもいいんじゃないか。



それは一言で言うと、
「自分が望むものを素直に見てもいいよ」と
自分に許可を出すことでした。


「人間でごめんなさい」
「汚れててごめんなさい」
「無力でごめんなさい」
「わたしがいてごめんなさい」

そういう気持ちが強すぎて、
望んだり願ったり、言葉に出すことさえ自分に許していなかった。


できないから。

何も変えることなんてできないと思うから。


そういう自分を見つけて、
ああそうか、わたしはそういう風に感じていたな、
そういう風に感じているんだな、
と、ひとつひとつ思い出していく時間を、わたしは過ごしていたんだと思います。



そして、
「どうせわたしには何もできない。ごめんなさい」
からスタートするんじゃなくて、

もっと素直に

「何かできることはないだろうか」
「地球に喜んでもらえることはないだろうか」
から、問いを、願いをスタートさせたいと思うようになりました。



それは同時に、
「わたしのことなんか誰も分かってくれない」
とひねくれていた自分を、

「同じ感性を持つ人と繋がりたい」
と変えていくのと同時で。


これも、よく考えたら今まで諦めていた望みなんですよね。
わたしはいろんなことを最初から諦めていたんだなあ、
と気づきます。
傲慢なことだったと思います。



そういう自分に気づいたことで
別に何か大きく現実が動いたわけでもないのですけど、
(いや、少し動きました)
今は、押し殺してきた自分の感性を生かしてあげたい、と思っています。


敏感で神経質に見られるかもしれないけれど、
それは実際そうなんだろうし、それでいい。

ただ、わたしはもう自分を否定しないよ、というだけで。



それだけでも地に足が着いた感じがするし、
ただ普通にうれしいのです。

まだ先があるのはわかっているのだけど、
しばらくはこの調子で、
次のトンネルまで淡々と歩いていこうと思います。





2017年6月2日金曜日

もう一人の自分の声



たとえば今日の沖縄は雨が降っている。

午前中から曇っていたり雨が降っていたりしたら、
なんとなくもの哀しい気持ちになる。

さあ、気分を切り替えて!
なんて言いたくなる。


でも、もの哀しいのが、それでいいとしたら?




明るい気分で、
元気よく、
ポジティブで、
ものごとのいい面を探そうとして、
喜んで、
嬉しくて、
人が好きで、

わたしたちはいつでもそうあらねばいけないような気がしている。


他人に、落ち込んだ顔なんて見せてはいけないと、
大人である限り、平気な顔ができないなんて許されないと。


でもそれを演じているうちに、
内側まで仮面に浸食されてはいないだろうか。



弱くて、
汚くて、
狡くて、
重くて、

それはいけないことなんだろうか。



それでもいいとしたら?



それがあって、わたしたちの自然だとしたら?


痛みや苦しみをどこかに追いやる必要なんて、
逃げる必要なんて、
そもそもなかったとしたら?



愛さなくてもいい。
ただ共存して生きていけたら。

地に足が着いた感覚で、自分の生を生きていけるのではない?



その淋しさややりきれなさが、
自分の反対側にいる、大切な存在の声だとしたら。

無視するなんてできっこない。





2017年5月25日木曜日

純粋ではなく愚かだと知れ



闇雲に信じるのは、純粋なのではなくて愚かなだけだ。



赤ちゃんは、
怪しい人が近づいてくると泣くし、

動物もその気配を察知して警戒モードに入る。





もし、
「信じてたのに」と被害者でいようとするなら、
それは自分の愚かさを露見させるようなものだ。

恥の上塗りだ。




「信じたかったもの」

たとえそれが、
大好きだった人の一言でも、
学校の教科書で習ったことだとしても。





信じるかどうかは自分で決める。

間違えたと感じるなら、
どこをどう判断ミスしたのか、
正確な判断の妨げとなったのは何だったかを自分に確かめる。

それさえもせずただ嘆くとしたら、
完全に依存体質で責任転嫁するだけの人間であると告白しているようなもの。



きっとまた何かを「信じて」
きっとまた「間違え」
「信じてたのに裏切られた」と嘆くことだろう。

知性がない。
覚悟もない。

それこそ自業自得。



それはあなたが純粋ではないからではないだろうか。





人の生き方の好みについて、
ああだこうだいう趣味はないけれど。






わたしたちの代表が愚かだとしたら、
それはわたしたちが愚かだからだ。

わたしたちの平均をとったら、だいたい代表になる。


わたしたちが賢ければ、
愚かな代表が代表であれるはずがない。


愚かなのは「わたしたち」であって、「彼ら」ではない。

「わたし」であって「彼」ではない、ともいえるか。




そうやって、自分に力と責任を取り戻していく。

それが、逃げないということだと思う。




逃げない理由は、
あとで自分が後悔するから。

ただそれだけ。





2017年5月24日水曜日

近況報告



もうすぐこの「ちきゅうはじっけんしつ」は閉じると思います。


その前に、今の状況をば。
近況報告的な。






今のわたしは、自分の内側に意識をむけることを訓練中です。
まだまだです。
気づいたときに内側を感じる、という感じ。

これをもっと習慣づけて、
いつかは当然のように在りたい。





食べ物も、発酵食品をつくる&食べることを続けています。
(二度目の甘酒も水キムチも成功。ザワークラウトもつくるようになりました)
お通じもよくなっているし、
何よりそれができる過程を見ているのが楽しい。

そしてそれを口にするときも、
自分を大事にしている感じがしてうれしい。

あ、発酵食品以外も9割以上は植物性の食品です。
母がつくってくれたものを食べるときには、
多少お肉や魚もつまみますし、鰹節のだしなんかは受け入れていますが、
自炊するときにはそういうのも入れません。
(でもめんつゆとかに入ってるのは避けてません)

実感としては、動物性のものに対しての欲求を抑えている感じもしないし、
とても自然な食生活のように感じます。
だいじょうぶです。

こういう風に食を変えてから、酢やお酒、ごまや海藻、ナッツなどを多用するようになりました。
風味と歯ごたえさえあれば、物足りなさも感じないです。






日常では、やっぱり交友関係は狭まったままです。
土日はひとりで過ごすか、家族と過ごすのが普通です。
外出も全然しますが、基本一人。
淋しさはありませんが、家族は、こいつ大丈夫かなって思ってるかも。
だいじょぶです笑

合わない、とか、嫌い、とか、
明確に思うわけではないのですが、
この人に会いたい、という気持ちが起こるまでは一人でいるのが自然な気がします。
誘われても出向きません。

億劫に感じたときでも、自然の中にいくと気持ちが広がるのを感じます。







気になる人ができました。
でも恋愛をしたいとは思っていないので、自分の気持ちがどこへ転がるかは様子見です。
Jのことがいつでも気がかりです。






ただ、静かになっていきたいです。

ハイになりそうな自分を諫めて、
大げさに悲しもうとする自分を諫めて、
ニュースに怒りを感じたり落ちこむ自分を諫めます。

おまえは本当に、そう在りたいのか?


人の目も気になるし、
この世界でうまくやっていきたいという願いも消えない。

だけど、何が大事なの?と思います。


間違っているかもしれない、だけど何を信じたいの?






そんな感じで最近を過ごしています。




2017年5月17日水曜日

こころもとないままでいいとしたらどうしよう



こころもとなく感じる。

だから確実にしたいと思う。




壊れないように、
間違えないように、
すぐに破れてしまわないように、

あとで、違ったと思わなくてすむように。
過去の自分を恨まなくてすむように。


そのための安心がほしい。



安心がほしくて、じたばたしてるんだ。
怖いから。



そして、努力次第では安心が得られると思ってる。

いつか、確定的でぐらつかない足場を得られると思ってる。




でも、こころもとないのが自然だったらどうしよう?



こころもとなくて、
かなしくて、
不安で、
自信がなくて、

それがわたしたちの自然だったらどうしよう?



それでいいのだったらどうしよう?



じたばた努力することで、

ほんとうのくつろぎや何も確定的なものがないという安心感から、
離れているとしたらどうしよう?






こころもとないままでいいとしたら、
わたしは、望みを失うと同時に安らかになれる。


その状態を望んでいたわけじゃないけど。






2017年5月16日火曜日

【群衆】ひとりでいるのが淋しいのは、何かがおかしいのではないか


思考と感情は不純なもの、
不要なものだという言葉に出会った。



人間の感情はすべて憎悪であるとも。



前にもご紹介した
もののケのしおりちゃんという女の子の話していることなんだけれど、

興味があれば、
もののケのしおりちゃん Twilog(最近のものは非公開)
をごらんになってみてください。





わたしも、きっとそうなんだろうなと思ってる。

もちろん、
いくら不純だと言われても、
わたしの頭はその不純なものでいっぱいで、
いまだなくすこともできていないんだけれど。





わたしたちは幼い頃に、
「みんなで仲良くしましょうね」と習うので、

物理的にひとり、
心理的にひとり、

であることをネガティブなものだと思ってる。


ひとりになることを怖れている。





たとえば、
いろんなことにチャレンジして失敗することが怖いのも、
「お金が稼げない」とか、
「親の顔をつぶす」とか、
「尊敬されなくなる」とか、
いろいろ無数に理由はあげられると思うけど、

結局深掘りしていったら、
「ひとりぼっちになりたくない」が出てくると思う。






以前にHappyちゃんのインスタ配信を見ていたとき、

「周りに、不安だらけの人しかいなかったら、失敗するのが怖いけど、
うちらみたいに「失敗、うけるー」って言ってくれる人ばっかりが周りにいたらどう?
チャレンジしても、失敗しても大丈夫だよ」

みたいなことを言ってた。



あの発言は、人を勇気づけるものになっていたと思う。




ただひとつわたしにあった違和感は、「仲間」。


「みんなで一緒にチャレンジしてくなら、怖さも減るよね」
という認識。





上記のしおりちゃんは、すべての「人間関係は不要」と言う。

自分と繋がってさえいれば。




わたしが、仲間をほしがる感覚になじめなかったのは、

「じゃあ仲間がいなければやらないの?」
「結局外側次第で自分が望むことをするかどうかを決めるの?」
「外側が内側に影響するの?」
「仲間と思ってる人が自分の望むことを理解しなかったり嫌がったらやめるの?」

って問いがずっと消えなかったから。



違うだろ、と。




チャレンジとかジャンプというものは、結局誰の後押しもなく自分で選ばなきゃ、
傍目から見てそれが「跳んだ」ように見えても、

結局は依存の域を抜けてないんじゃないか、と思った。




そういう視点での「仲間」は、覚悟や自分の負うべき責任を免責、減免させるためのものでしかない。







OSHOの言葉を載せます。







孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

 私はひとりでいるときはいつも、かけ離れ、孤独で、惨めな感じがします。私は他の人たちと一緒にいるときしか自分を愛せません。独りだと、恥ずかしくて、自分が好きではありません。まるで私は他人の目を通して自分を評価しているように思えます。


 それは根本的な問題のひとつだ。人間ひとりひとりがそれに直面しなければならない。
 それはあなただけではない。子どもたちの育て方が、この惨めさ全体の原因だ。あるがままの自分で認められている子どもは、ひとりもいない。両親、先生、年長者たちの指示に従えば、彼は褒美がもらえる。これらの指示は、彼の自然さに反するかもしれない。なぜなら、これらの指示は、彼によって、あるいは彼のためになされたものではないからだ。誰かが5千年前にこれらの原則をつくり、それらがいまだに子どもたちを育てるのに用いられている。
 当然、子どもはみな、置き換えられる。彼は本来の自分ではない。自分自身ではない。彼は誰か他の人だ。その誰か他の人は、社会によって、他人によって与えられている。
 だから、あなたがひとりで、あなたに指図する人が誰もいないとき、あなたはただ自分の本性に寛ぐ。演じる必要は何もない。見ている人がいないからだ。その、自分の本性に寛ぐことが、あなたに罪悪感を抱かせる。あなたは自分の両親に、聖職者に、社会に逆らっていて、彼らはあなたに、あなたは、あなた自身では、正しくないと言っているからだ。あなたはそれを受け容れたのだ。それはあなたの中で条件付けされたものになっている。
 あなたが自分でやることはすべて、つねに非難され、あなたが他人に従ってやることはすべて、つねに褒められる。
 あなたが独り在るときには、他には誰もそこにいない。当然、あなたは役目を果たす必要はない。あなたは偽善者である必要はない。あなたはあるがままの自分に、ただ寛ぐ。だが、あなたのマインドは他人から与えられたゴミでいっぱいだ。
 だから、あなたが他の人たちといるときは、その他の人たちがあなたに指図している。そして、あなたが独りのときは、他の人たちによって作られたマインドがあなたを醜く感じさせ、罪悪感を抱かせ、価値がないと思わせる。
 人びとが独りになりたがらないのは、そのためだ。彼らはつねに、他の誰かといたがる。他の誰かといると、彼らは自分の本性に寛ぐことができないからだ。他人の存在が、彼らを緊張させておく。他人がそこにいて、あなたが取るすべての行動と仕草を瞬間ごとに判定しているのだ。
 だからあなたは、正しいと教えられた、ある行動をただ演じる。それで、あなたのマインドは気分がいい。それは条件付けに沿っている。あなたがうまくやったので、あなたのマインドは幸せだ。あなたは素晴らしい。
 人びとは群集を必要とする。これが、彼らはなぜつねにヒンドゥー教に、キリスト教に、イスラム教に、この国に、あの国に、この民族に、あの民族に属したがるのかという、心理的な理由だ。 たとえそれでは物足りなくても、彼らはロータリークラブ、ライオンクラブをつくる。




元文はコチラ→「孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

(もっと長いし面白いので続きも読んでみてね)





OSHO HPより引用させていただきました)









わたしたちは、「ひとりになりたくない」と言うけど、
しかもそれが行動選択の最も深いところにある切実な動機になっていたりもして、

さらに、
それは弱い人間ゆえに仕方のないことであり克服する必要はないもの、
だと思いがちだし、

それを「人間の哀しくもいじらしい、可愛さ」だととらえ、
それゆえに「人は人と深く結びつこうとするし、絆を築ける」とポジティブ解釈さえする向きもあるけど、



本当にそうなんだろうか?





わたしたちが「憎悪」ゆえに求める「人間関係」は、

ほんとうにわたしたちが求めるものなんだろうか?




まだ、答えは出ていません。








2017年5月11日木曜日

お通じ解消のためにしたこと&発酵食品(水キムチ、甘酒)づくりしてみた♥



便秘解消しました!


荒れて吹き出物まで出ていた肌が、
よーやく元通りに。。。!!!

うれしい。。。。





何が良かったのかわかりませんが、
変えたことをあげてみます。


イロイロと「取り込みすぎ」が原因じゃないのかという自覚がありましたので、
やったことは大きく分けて二つ。

取り込むものの質を選び、減らし、
とにかく出すことを最重要課題とする!!



【情報系】
・情報の取り込みの制限(SNS離れ)
・blogでアウトプット

・↑に通じますが、内観
便秘をどーにかしたい!内観してみた。
自分を信じて守り通すことができるだろうか
きたものは全部出す。現在脳の排水中。



【食べ物系】
・食生活の変化(ジャンクを減らし、菜食中心に)
・食事量を減らす(空腹感がないなら食べない)
・乳酸菌飲料を取る(ミルミル♥好き。。)
・甘酒づくり&水キムチづくりに挑戦(発酵食品への目覚め♥)







情報と食べ物は別のもののようでそうでもなく、
すごく密接に繋がってると思う。

いい子ぶりっこと悪い子ぶりっこ
↑これなんか、そのままリンクしている笑


頭の中にやたらめったら要らないものを取り込むと、
それによって思考→感情が乱れ、行動がぶれ、
要らないものまで口に入れちゃう破目に。


逆に、
必要ないものOR必要以上のものを身体に取り込むと、
クリアな思考が乱され、
イライラしたりぼーっとしたりする。


相乗効果というか、悪循環にはまるということが分かりました。



落ち着いて、
何が必要なのか自分としっかり対話しながら選ぶ余裕、
これが大事なのだと思います。




それでね、

これをきっかけに、
発酵食品づくりにチャレンジ。

っていっても難しいものはできないし、

ずっと前に買っておいた米麹(賞味期限3年近く切れ)で甘酒をつくる、
そして、家にあるものでできそうかつすごく乳酸菌が多いという水キムチをつくることに!

水キムチ。漬けたばうかりの段階。
野菜は、大根と人参。



結果からいって、
両方たぶん失敗。。。。



甘酒は、甘さが足りない。

理由は、玄米で作ったことと温度管理(炊飯器)がうまくできなかったことかと思われます。かなりいい加減にやったから、高温になりすぎたかな。。(え?期限切れのせい?)
でも、味が薄いとはいえ普通に飲めるので飲んでます。
ご飯がわりとかにして。
あんまり甘くないけどお腹にはいい感じがする。



水キムチは。。。

ちゃんと分量も量ってつくったんだけどなぁ。
発酵しない。
いつまでたってもぶくぶくしない。(゜.゜)
敗因は、密封できない容器に入れてやったことかなぁ。
いつまでたっても発酵している様子がないので、一日経ってからサランラップで密封したんだけど、遅かったのだろうか。
それとも他の理由が???
とりあえず漬け汁は捨てて(くっそーもったいない)冷蔵庫で保管しポリポリ食べてます。



またチャレンジします。


甘酒は、次は白米でトライする。(賞味期限内の米麹でな)
水キムチは、密封はもちろんのこと用具の殺菌もちゃんとやろう。



―――――――――――――――――



発酵食品好きなんだけど、
スーパーではちゃんとした発酵食品ってなかなか手に入らないじゃない?

味噌とか納豆でも発酵止めで菌は死んでるだろうし、
キムチだってよくわからない液体に漬けられた浅漬けみたいのが多いし。
ヨーグルトだってそうだよね。



家で気軽にできたらいいなって思ってたけど、
意外に簡単そう。

と思ってやってみたら思ってたより難しそうだけど笑


楽しかったのでよかったです。



そんなこと思ってたら、
NHKで「きょうから発酵ライフ」っていうのやってて、
今日は酒粕回だったんだけど、面白かった♥♥


沖縄では酒粕ってあんまりなじみがないのね。
粕汁とかも飲んだことないし。

でも知り合いの方からいっぱい分けてもらえそうなので、
COOKPADとか見ながらいろいろ試してみたいと思います。




正直、この世界には前から興味はあって、
でも難しそうだからって材料は買っても挑戦したことなかったのね。
だからこの機会にやってみることができて良かったです(*´▽`*)

便秘、このためだったのかなとか思ったりして笑




梅雨が完全に明けたってなったら、
今度は干し野菜にもチャレンジしたい!
(実は、前記事に書いた切干大根、三日で黒くカビちゃって涙)

何度かチャレンジしてはいるんだけど、毎度翌日雨降ってくるんだよな。
湿度あがってカビ菌さん大繁殖みたいな。





わたしの場合、なるべく(使いすぎている)目と頭を休めたいので、
手を中心に身体を使うことを心がけたいところ。

発酵食品やその他の調理、下ごしらえは、それにちょうどいい作業になりそうです。






2017年5月8日月曜日

わたしはいつまで日記を書き続けるんだろうか


書けるうちに、書きたいうちに書いておきたい。全部。


今思うことは今しか書けない。
臨場感が消えてしまうだろうから。


苦しくて毎日泣いて泣きすぎてティッシュひと箱を一日で使い切り、
もう無駄使いだからとトイレットペーパーで代替し、
最終的にはバスタオルで涙と鼻水を拭いていたときの感情は、
今では思い出せないから。




わたしは、どんどん変わっていくだろう。

感じ方もものの見方も変わっていくだろう。



今とはまるっきり違う方向へと変わっていくだろう。
わたしはそれを望んでいる。



そのときにはもう書きたくないかもしれない。

書くのは無駄だと思うかもしれない。
わたしの言葉は多くの人にとって理解しにくいものになっているかもしれない。
もっとしたいこと、優先したいことができているかもしれない。


いやわたしにとって「書くこと」は、
人生の中でとても重要な行為であると思うので、
そのときもきっと言葉を紡ぎ続けるだろう。


が、今のかたちではないかもしれない。




いつまで今のかたちで毎日の心境を綴り続けるのだろうか。
よく飽きもせず。


あなたもいつまで読み続ける?笑






今はわからないことが、
そのときにはわかるようになっているだろう。

それが楽しみだ。



もっと静けさの中にいれるだろうか。


自分をもっと知ることができているだろうか。



自分を大切に、
一心に想うことができているだろうか。

今よりもずっと。




このblogは、

今の自分が自分をより知って自分を表現していくための手段だし、
これから先の自分がこれまでの自分のことを振り返るための手段だし、
知らない誰かが読んで何かを感じるためのきっかけになればいい。

ならなくてもいいけど。




きっと届く人には届くし、
永遠に触れ合わない人のほうが多いのだ。


一瞬だけでもかすることができたのなら、
それだけで奇跡と呼んでもいいかもしれないね。




でも

その奇跡に感謝しよう、なんて絶対言わんよわたしは笑


わたしは衝動に突き動かされるだけだし、
たまたまとたまたまが重なって、
ただの偶然を、人によっては気づきや行動のきっかけとすることもあるだろう。


うまいこと使われるだけ。
人生に。
流れに。


笑っちゃうね。






2017年5月5日金曜日

「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」



もともと人間が好きじゃないんだよな。

だから、人間である自分が好きじゃないんだよな。



小さい頃にNHKでやっていた子供番組を観ていた影響なのか、
わたしは「人間ってろくなことしないな」という思いがすごく強い。

いや「ろくな存在じゃないな」だな。



木を切って荒地にして
興味本位、もしくはお金になるから動物を乱獲して
たくさんのガスを出して
汚れたものを綺麗にするために洗剤をドバドバ使って海や川に流し
整地するといって土をコンクリートで埋める

地球にとって、嫌なことばっかりするよな、って思う。

心も汚いし、もうまとめてみんないなくなったほうがいいんじゃないの?




本当に本当に、
人間って自然の秩序を乱して壊すためにいるの?
って何回も思ったし悔しかった。
悲しくて落ち込んだ。

わたしなんで人間なの?みたいに、自分の種が嫌だった。
憎んでたと言っても過言ではない。



まあ、同じ番組を観てた同世代の子供たちは何万人といただろうし、
みんながみんなわたしと同じように自分が人間であることを恥じてるとは思えないので、たぶん番組のせいじゃないです。



これはわたしの性質的なことです。


ナウシカやもののけ姫的な世界観が、
なじむかどうかの話です。



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一回り年上の元彼が、歯磨き中に水を流しっぱなしにしていた。(しかも結構な量)

最初は、そんなこと注意とかしたくないし、
説教かよとか思われたくなかったから言わなかったんだけど、
どうしても気になったから横からきゅって止めたの。
(なるべくさりげなく止めたつもりだった)

そしたら「なんで」と言われた。

ruは「水、もったいないじゃん」と言った。


彼は「俺、実家でも水止めろとか言われてないし。これぐらいよくない?じゃあ俺が水道代払うよ。別にruが嫌だったらruが見てるときは流しっぱなしにはしないけど」と言った。
すごく嫌味っぽく。
(わたしはそう感じたけど…。今考えてもやっぱり思いっきり皮肉だったと思う)


ruは「うん、ごめんね」と謝った。
すごいむかついたし悲しかったけど。

腹立ったし、なんでか泣きたいくらいに悔しかったけど、
謝って洗面所から離れた。



そのとき、元彼とはうまくいっていなかった。

一緒にいて心地いいとか、フィットするという感じがなくて、
でもお互いに笑顔をつくってデートらしいことをしてご飯を食べて、
まあそういう末期の状態だった。

だから彼もそういう棘のある言い方をしたのかもしれない。



だけど、

そのとき、「ああこの人とは致命的にダメだ。感覚が違う」と思った。



彼は、わたしが節約のために水を流しっぱなしにするなと言っていると思ったかもしれない。
もしくはわたしが「いい人仮面」で、いわゆる道徳をタテに彼を説教しようと、批判しようとしていると思ったのかもしれない。



でも、わたしは、

水を命だと思っていない態度が、つらかったのだ。

地球を生きている存在だと感じていないことが、
見ていて悲しかったのだ。



自然や人間以外の生き物に対して、
そういう扱いをする人はたっくさんいる。超いっぱいいる。


でも、身近な人だと、我慢できなかった。

我慢するなら、一生我慢することになる。

生き方の根幹に近い部分なのに、それを無視して生きていくことになる。





「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」




それはとっても大きな隔たりで、
感じない人には絶対にわかってもらえない。


お利口さんで言ってるんじゃないのに。



「へー、感受性豊かだねえ」
「へー、想像力あるねえ」
「へー、ただのモノじゃん?擬人化しすぎじゃない?」
「へー、まじめだねえ、優しいねえ」

それくらいのものだろう。




だって、痛くないのだから。






わたしは例によって自分の感覚を軽視して生きてきたし、
自分が憎んでいた「人間」の側面に
積極的に同化しようとしてきた。

じゃないと葛藤が大きすぎて苦しい。


わたしはわたしが憎んでいる「人間」なんだ。


自分だけ綺麗みたいに思うな。




その感覚を、
その感覚を憎み忌み嫌って捨てたときの感覚を、
今思い出している。



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わたしは一人でよく近くの海に行く。

GW中も、
仕事帰りでも仕事の前でも休日でも、
わたしはよくその海でぶらぶらしている。



自然のビーチというのは、
着替える場所もないし潮だらけになっても洗えないし、
現代人の遊び場には使い勝手が悪いものだ。


十年前くらいに大がかりな整備が入り、
埋め立てや護岸の工事、
傍にはレストランや公園、そして水道もトイレも整備された。

当時は地元でも賛否両論あったけど、
それは現実になった。


気軽にぶらっときて、
便利に使える施設になったと思う。

だから地元の人だけじゃなくて観光客もいっぱいいるし、
ビーチパーティーをしている人も、
海外からウェディング写真を撮りにきた人たちもよく見かける。



そこで写真をとってSNSに載せたり、
blogで紹介している人もたくさんいるはずだ。



夕日の時間帯には、
たくさんの人たちが空にカメラを向ける。




綺麗だね、
水が透き通ってて砂も白くて、

あ、魚もいるよ。





わたしが小さかった頃、
もう20年も前になるけど、

すぐそのへんを歩いていたら、貝やウニがたくさんとれた。
拾ったそいつらをバケツに入れて家で割って食べるなんてよくやってた。


そのへんの岩陰には、
青い小魚以外にも、熱帯の色とりどりの魚がいたし、
ナマコやカニがいたし、
イソギンチャクだっていたし珊瑚も白くなっていなかった。

まだ生きていた。




今は、引いた砂浜をずーっと沖のほうまで歩いても、
20年前にはいた生き物たちがいない。



20年前にも、
祖父母や父から、
「昔はここにはもっとたくさんの魚がいたんだよ」と言われてた。


父は、幼い頃に父のおじいさんといっしょに海に行き、
おじいさんが手に持っていた網を波うち際に投げてたくさんの魚をとっていたと話してくれた。

小さくて目もよかった当時の自分にもとても見えなかったけど、
おじいさんには魚の群れの動きが見えていたんだな、と言っていた。



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わたしたちはどんどん自然から離れて、

もちろん魚がいても見えないし、
いやそもそももう魚なんていない。


星を見て方向を見ることも、
風の湿度で明日の天気を当てることもできない。

そんな能力はみんな失った。




わたしたちにとっては、
空も海も虫も鳥も全部敵だ。

支配する対象だ。



海が綺麗ね、と言っても、
うわっつらしか見ていない。

綺麗な海が好き、だけど海を殺すことには無感覚。


自然を守ろうなんて言うな、傲慢にも。
うちらに守れるはずない。
驕りだ。





だからもし、
地球が人間のことが嫌いでも当然と思う。


だからわたしは人間であるわたしが嫌いなのだ。

人間でごめんなさい、と思う。





ごめんなさいって思っても仕方ないけども。



人間って本当に、
地球を壊すために生まれてきた存在なんだろうか。
(流れの中で、癌としての役割を果たしているんだろうか?)


そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


そうじゃないかもしれない可能性をとりあえずは信じたい。
(じゃないと話が終わってしまう)


自然の中で調和をとれる存在に、
どうやったらなれるんだろうか。

なれるんだろうか。



わたしはとりあえず、今は死なない。

だから、せめてどうにか地球の邪魔にならないように生きていきたい。




そう思って過ごすGWです。






2017年5月4日木曜日

今季のユニクロ可愛い!!トップスを4枚買い足すの巻

GWですが、
わたしはずーっと家&そのへんで過ごす予定です。
というか予定がないです。

どうも、ruです。





きのうは夕方からユニクロに向かい、
あっというまに渋滞にはまり国道を2キロくらい、5キロ/hぐらいで走って、
中央分離帯が切れたところで諦めて右折Uターンして家に帰りました。

北向けに向きを変えた途端に、80キロ/hで走れて、
とっても爽快な気分☆でした…



なので今日午前中にリベンジ。


またTシャツ類トップスを買ってきました。
(図らずも、青白系にもどっちった…笑)






以下、写真は全部ユニクロさんHPから→ ☆ユニクロHP☆

スーピマコットンリブクルーネックT(半袖) 

前買ったやつの色違い。
今日は白をゲット。

【参考】ここ1、2カ月で買ったお洋服たち♥(写真あり)





それからこれ。
リブバレエネックT(半袖)

ライトブルーとグレーの二色。




着るとこんな感じ。

上のクルーネックと似てるんだけど(リブだし)、
首周りの空きがもっと広いです。サイドに。

で、フィットします。

好み。。。




あとこれ。
エクストラファインコットンスリットネックブラウス(半袖)


わたしはこの、
くすんだブルーのような(実物はもっとくすんでます)色を買いました。
でも表記はGREENとなっています。

置きだとこんな形。

でも着るとすっきり見えるよ。

店頭には黒人の女の子が着てる写真があって、
HPのモデルさんよりもカジュアルな着こなしで可愛いかった♥






以上、四枚のお買い上げになりましたー!
サイズはぜんぶM。

合計五千円ちょっと。



まじで、今季のユニクロ、可愛い子がいっぱいいる!!
2、3年前はほとんど買うものなかったのに…
アタリ年なのかな。


自分には似合わなさそうだなーって思いはするも、
やっぱり可愛い綺麗な形のものは多くあって。

デザイナーさんがた、頑張っておられますな、と思う。(上から)



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でもレジ並んでいるときにちょっと罪悪感が出てきて、
正直棚に戻そうか迷った。


洋服好きだけど、
それにばかり意識をむけるのってどうなの?と。
ファストファッションだしな。
自然素材が好きだけど、綿ってめっちゃ農薬使うしな。


いろいろ思った。



罪悪感は意味ないって分かってる。



だから、
現時点でほしいと思うなら買って、
毎日気持よく着て、

いつかファッションに意識むけること自体に違和感を感じるようになったら、
そのときはすっぱりやめよう、と結論出してお買い上げです。



考えすぎかな。

考えすぎかもしれなくても、
わたしはそういうめんどくさい人間なんですよね。



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家に帰ってきて、

冷蔵庫で長いこと放置されていた使いかけの大根を、
細切りにして切干し大根とする。


せっかく晴れて太陽の日差しもあるし。

よーやく重い腰をあげる。



切った大根をボウルにあげて、庭のゴーヤー棚の網の上に置く。
(家庭菜園を父がやっています)


傍にはミニトマトがたくさんなってて、
虫に食われているもの、
鳥に食われているもの、
腐って土の上に落ちたもの、

緑のものも赤のものもいっぱいある。



庭には、パパイヤがありニラや葱があり、
ときどきは葉野菜があり。




自給自足の生活には憧れるけど、

こだわりだすと、
農薬は使っていないが化学肥料はどうなの、
種はF1種以外(在来種)を探すのは難しいよ、
虫や鳥や雑草をどう捉えるか、

って、やっぱり気づくところ(気になるところ)はいっぱい出てくるんだよね。




そこのバランスだな。



一気に全部は変えられない。
天国に引っ越すことはできない。


こころがパサパサにならないように、
でもだからといって快楽に飲まれないように、

地に足を着けて、
方向性だけはちゃんと定めて、
先を見すぎずに(先なんてものはない)、
今自分はどう思うのか、何をしたいのか、何を求めているのか、

バランスをとっていく。




それにOKを出していく。




矛盾に感じられるところがいっぱいあるんだ、
でもどちらともいえない段階なら、
無理やりにどちらともいわず、保留にしとく。


こうじゃなくちゃダメ、はわたしの望む在り方じゃないから、
そうはならないように。



でも、

正解はないにしても、
「今を楽しめばいいんだよ」も違うと思う。

それってたいていの場合、
麻薬の高揚感、「苦痛の気持ちよさ」を指してる。



内側にちゃんと道があるのだ。

その道からはずれてないか、
声に耳を澄ませているか、
ずれに気づいたら戻る意志はあるか。




その上で自由に生きれたらいいな。





苦痛は気持ちいい



人は何よりも退屈を恐れてるんじゃないかと思う。


退屈よりは、
苦しかったり辛いほうがいい。


「喜怒哀楽」
人間の感情はすべて「憎悪」である、
という言葉には納得できる気がする。






わたしが19歳で共依存の恋愛に苦しんでいるとき、わたしはいつでも相手のことを考えていて、毎日泣いていた。

友人に「なんでその人がいいの」と言われた。
わたしは答えられなかった。

その友人は「わたしは追いかけるより追いかけられたいな。愛されたいな」と言った。
「世の中には、もっといい人いっぱいいるよ。普通の恋愛だってできるよ」と言った。

わたしは…
「いやだつまらない」と思った。


そう思った自分に焦った。


「普通の穏やかな恋愛なんて恋愛じゃない。退屈だ。わたしはもっといつでもどきどきして感情のジェットコースターを味わっていたい。それが恋愛だ。わたしは普通の恋愛なんかに興味はない」
という不都合な真実に気づいてしまった。


そして慌てて、なかったことにした。

(だって自作自演なんて認めたら興醒めだからね)

【参考】罪悪感は世界一意味ない ←罪悪感なんてもう最高に気持ちいい笑




わたしは、確実に酔っていた。


恋愛中は世界が色づいて見えるとか言うけれど、
わたしはそれに加えて、
より強烈に「自分は世界の主人公である」という感覚を必要としていた。

人と比べて特別意識もあっただろう。
(決して羨ましがられてはいなかったと思うが、そんなの関係ねぇ)



共依存の恋愛は、超刺激的だ。

苦しくて苦しくてしょうがなくて、甘美だ。


苦しくて痛くてしょうがないから死んでもいいとすら思うんだけれど、
まあ結局死なないよね。
お楽しみなんだもの。

お楽しみで死ぬのも盛り上がりはするけど、
もし一線を越えたら「あっちゃー」だ。
慌てる。
「いやいやいや、寸止めっしょ、そこは」笑






だから、やっぱり苦しみは気持ちいいのだ。

麻薬だ。
強烈に自分を「ヒロイン」にしてくれる。

自分を特別に感じさせてくれる。


というか「自分」を強烈に感じさせてくれる。

「自分」の存在を、世界から浮き上がらせてくれる。


それがめちゃくちゃ快感なのだ。




穏やかに、何も起こらないなんて何?って感じだ。

つまらない。
「自分」がここにあるのかないのか分からないじゃないか。


喜びだって、
楽しみだって、
本当は「苦」の一種だ。

麻薬だ。

(だから「首しめて」とか言っちゃうんだYO笑)
【参考】性癖って、コントじゃん?




退屈から出ていきたいのだ。

「時間の無駄」だといつでも頭は言う。



刺激がほしいの。ちょうだい。




「わたし」はいつでも何かになりたがる。


気持ちいいから。
理由はそれだけ。

「生きていると感じる」と人は言う。


でも、それは麻薬使用後の高揚じゃないだろうか。


麻薬が切れると、
もしくは慣れて効かなくなってくると、
また同じ退屈の中に戻ってきてしまう。


そしてまた刺激を欲する。

もっと強烈な刺激を。



別に「喜怒哀楽」どれでもいいのだ。
「悲喜こもごも」がほしいのだ。

どれも一緒だ。
【悲喜こもごもつながり笑】義理人情、悲喜こもごも人間模様はわたしの人生にはいらない




人は、退屈の中に留まるのが辛いのだ。

不安になるしね。



やってみると分かる。

いやこの場合の「退屈」はマインドにとっての「退屈」なので、
誤解しないでほしいんだけど、
「自分を特別だと感じられる刺激を求めないようにする」と同意と思ってもらえたらいいと思う。

「美人は三日で飽きる」の、美人と一緒。
飽きれば役に立たない。



「喜怒哀楽」を感じるための
外側のイベントを求めず、
思考をいろんなところに飛ばして感情を動かす遊びもやめると、
それはそれは退屈です。




じゃあその空いたスペースをどう使うかというと、

たとえば歯を磨くとかドアを閉めるとか食事をするとか。
そういう行為をするときに、
何か自分にとって面白かったり(それをする自分を特別に見るための)意味のある意味付けを探したり、
逆に適当にやるんではなくて、

すべてを丁寧にやるということ。



うん、キーワードは「丁寧」かもしれない。



丁寧に行為をするときって、
逆に「自分」がいなくなる気がする。

高揚感がゼロになる。


「喜怒哀楽」がなくなり、
上に何度もあげたような気持ちよさも消える。




だけど、もっと静かな心地よさが現れる。



穏やかでつまらないかもしれない。
(そして、見たくないものが見える可能性もあって、それは気持ちよくない。けどスリルがあると思えたら、裏返って違う種類の気持ちよさになる笑)

だから、そこは好き好きだけど。






「苦しい」は気持ちいいよね、わかるよ、と言いたかった。


気持ちよくなければ、
そんなの選ぶはずないもの。

人間だってそんなにわけの分からない行動はしない。


気持ちいいから選んでるんだ。



だから、かつてのわたしのような人に、
「もっと幸せな恋愛をしたら」というのは、
大きなお世話を超えて野暮だ。

それは「気持ちよさを半減させる」提案だから。




しかし人ってやつは、
退屈から逃れるためならなんでもする。

戦争だってする。
人生を賭けて、命だって賭ける。
(だって賭けるものが重大であるほど刺激は強くなる。スリル命。)


というかOSHOは、戦争は人が刺激を求めるところから生まれると言っているが、
それは本当だと思う。
血と暴力とセックス。
ハリウッド映画は全部備え持ってる。

人間が欲しがるものだ。

興奮したい。
つまらない日常から出て、「特別」を疑似体験したい。




内側を見て。

そこには何がある?






自分を信じて守り通すことができるだろうか



ここ一、二カ月わたしは体調がすぐれない。
主に便秘。

でももういっこあって、視力の低下。


両方繋がってる気がする。



「取り込みすぎ」だ。
自覚がある。



外側から必要以上のものを入れるな、ということだと思う。

特に情報。
いや食べ物もだけれどね。

ガマンしなさい、という感じ。



必要じゃないけど、
わたしは惰性と退屈から取り込んでいる。

不安なんだろうか。

自信がないんだろうか。

怖いんだろうか。




一人で立っていることが怖いんだろうか。



逃避でもあるな。




便秘も視力低下も顕著な変化で、
明らかなメッセージだと思ったので、
最初は抵抗していたけど、メッセージを受け取ることにした。
(だって便秘でも食べたいし、必要なくても読みたい)



―――---------------------



すると過去の自分を思い出した。




このblogでは何度も書いてきたけれど、

わたしは自分よりも他人の感覚が正しいと思って、
自分を疑い信じてこなかった。


それでもわたしの態度が強情に見えることはあっただろうし、
「確固とした自分の意見があってすごいね」みたいなことを言われたことも一度や二度じゃないから、よくも悪くも「自分がある」ように見えていたかもしれない。


でも、本当は違うと思う。



それは、十分に自分を殺したあとのわたしの姿だ。




わたしは基本的に、
全部周りの言うことを受け入れてきたタイプの人間だ。



ことあるごとに、
「自分がおかしいのかな」と思い、
自分が好きでもないものを好きと言うような、
行きたい場所も言えないような。


わたしはわたしであることが嫌だったんだろう。



だから信じてあげられなかった。

信じるなんて、
守り通すなんて選択肢はなかった。

そこまでの価値を感じていなかったから。





それがわたしの選択だった。

環境がさせたわけじゃない。
そう言うことはできない。

わたしが、わたしの感覚を選ばないという選択をしただけ。
感覚を捨てる、という選択をしたのだ。わたしが。




悲しくて辛かったし、
そのあと指針を失って途方に暮れた。


でも仕方ないことだ。

自分がやったことの結果は自分で受け取るしかない。






わたしはどんな女の子だっただろう。


わがままで、
注目されたいのにされると恥ずかしがって、
素直だけれど素直じゃなくて、
失敗するのが嫌で、
空想癖があって、
絵本とお絵かきが好きで、
大人しくて、
泣き虫で、
子犬にお弁当を食べられても見ているだけで、

でも怖がりのくせに冒険したくて、
新しくて不思議な世界を信じていて、見たくて、
自分の頭で考えたくて、
自分が見て感じたことを口に出したい、
納得できない命令にはてこでも動かない反抗的な面を持つ、

人の感情や違和感に敏感な、
感受性が強くて神経質な子供だったように思う。





この中にも「原型」ではなくて、
既に環境から得た色が混じっているかもしれないけど、
わたしの記憶の中ではこんな子供だった。




でも、友人がもしこれを読めば、
「へえ、意外」と言うものもあるかもしれない。


特に、弱くて怖がりで泣き虫で感受性が強くて。。。の部分は、
わたしが自分で嫌って隠して殺してきた部分だから、
親しい友人であっても、「意外」な部分だと思う。


わたしは理屈じゃなくていつでも感性で物事をとらえていたし、
いつでも感じていた。

自分の世界に入ってはぼーっとしていて、
意地悪グループ(って便宜上言いますが、クラスで声が大きい子たちと思ってください。本当は別に意地悪なだけじゃないんですけどね。)の子たちが怖いと感じていた側。



だけど、それじゃあ身を守れないと思った。

だから、新しくキャラクターを作り上げたのだ。
鎧のように。

処世術の一環として、なるべく自分に負担の少ないキャラクターを。



それが、
成長してから出会った人たちが知る「わたし」だ。

5歳の頃とは違う。





ここ最近、
自分についてあれこれ考えているうちに浮かんできたのが、
そういう徒然でした。


もはや鎧や仮面なんていうほど、
「取り付けた外側」という意識もない。

わたしの一部、と感じている。



でももしかしたら、それも脱いでいく時期なのかもしれない。



あとから習得した、
「ひょうひょうとクールな、どうでもよさそうな態度」
「乱暴だったりきつめの言葉づかい」
「意地悪を言うこと(冗談)で距離の近さを確認するコミュニケーションの取り方」

要らないかもしれない。



自分でも、強すぎると感じていた表現たち。

自分の一部と思えるほどクセになっているから、
気づかずにそれを演じてしまうことは多々ある。

でも、

それももう自分から切り離してもいい時期かもしれない。




そしてまた自分に戻っていきたい。



今度は、
他人に何を言われるか思われるかではなくて、
自分の内側に忠誠を誓えるだろうか。




自分を信じて、守り通すことができるだろうか。








2017年5月1日月曜日

「モトを取る」思考



バイキングに行ったり、
バイキングレストランの話題になったとき、
結構な確率で誰かの口から出る「元を取る」という言葉。


すごく違和感がある。


なんか、豊かじゃないよね。





相手の方が、
「わたし●●が大好きなの、それだけ食べられたら幸せ」
というので、

ruは「じゃあ、しょっちゅう買って食べたらいいですよ」と言った。

彼女「でも高いからそんなには買えない」

ru「高いっていっても、1000円もしないんじゃないですか。1000円で確実に幸せになれるんだったら全然高くないと思います」

彼女「んー…。でもわたしバイキングでもそればっかり食べてたいくらい好きなの。でもそればっかり食べてると、周りに元取れないよって言われるから別の食べるようにしてるけど笑」



………。




えーーーーーー笑



それって、えーと。


なんか不思議なことおっしゃってませんか?ね?






元を取る、という思考の残念なところは、二つあると思う。


①モトを取る(払った金額以上のものを消費、獲得する)ことが優先課題となるため、それ以外の喜びや満足が後回しにされる。
ex)好きな物を選ぶ、ほどほどでやめる→身体が軽い状態で次に移れる


②コストを意識してはいるが、それが単純な物の値段にしかむいていない。
他のサービス(新鮮に保つ努力、盛り付けなどのワザ、スタッフの気遣い、場所の雰囲気づくり)などは、コストに反映されないことになっている。

そのため、それらを感謝して受け取れない



「元を取りたい」という考え方は
どちらかというと、「損をしたくない」の「損」にフォーカスしている。

わたしが出したものに対して、きちっとした分量で見返りがあるか?
とずっと見張っている感じ。

あと、相手に「得」をさせたくない、もあるね。(なんでや)




そして食事中ずっと原価計算。笑



それは辛い。笑



当人も辛いだろうし、
今となっては同席しているわたしだって辛いぞ。
楽しめないぞ。

(前はわたしも同じような思考だったので、違和感も感じてませんでした)
(今はその思考のかけらを見つけてはポイっとする日々です)



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身内が、
テレビ観てて、旅館や食事の値段が出てきたりすると、
しょっちゅう「たっかっ」って言うのね。
「庶民はこんなに出せないよねえ」って。

(いや、ランチ懐石フルコース、高級っていっても一万五千円なら経験しようと思えば全然できるやん、なんだ♥って思ってたんですけどわたしは。と言いたい笑)



わたしだって値段は目に入るけど、
それよりも綺麗なインテリアとか盛り付けとかおもてなしの感じや言葉遣いとか、
どんな人がどんな風に利用するんだろうとか、そっちを見たり想像する。


そんで、たいていの場合は、
「値段に見合ったクオリティだなあ(すげえ)」と感じるし、
「そう感じる人が気持ちよくお金を出してサービスを受けるんだなあ、その人たちにとっては高くはないんだなあ」と思うし、

逆に自分が高いと思ったものについては、
「提供者は自分(の提供するもの)に自信があるんだなあ、自己肯定感の高さを学ぼう」とか、
「好みは人それぞれ、ちゃんとマーケットはあるんだなあ」と逆にほっとする気持ちにもなったりする。



でも第一に「たっかっ」が口をついて出てきて、
値段への感想ばかりが出てくるということは、
その人にとっては金額が一番大事なんだなあと思う。




コスパにこだわる、

それが悪いわけじゃないけれど、
他にもっと興味あることないのかなあとは思う。



まあ、お金よりも名誉(見栄)が大事、
ってなってきてもそれはそれで縛りになるから、
あんまり優先すべき何かを持たないほうがいいのかもしれない。




――――---------------------




感想や質問は、それ自体がその人の頭の中を表すから、
ちょっと怖いことだよね。

どこにこだわってるかが透けて見える。



ruの場合だと、
前はそれが怖かったけど、今は「見られてもいいや、どうしようもないのがばれるだけだ」と、ある意味開き直ったというか、別にあんまり気にならなくなってますが。


見てくれや、って感じです 笑




2017年4月30日日曜日

男の人の純粋さを笑わないで


男女について考えている。



弱くてはいけないのか。
泣いたら弱いのか。
泣かなければ強いのか。





女性たちに言いたい。


男の人の純粋さを笑わないで。
馬鹿にしないで。
軽蔑しないで。
一番柔らかくて綺麗なところをふみにじらないで。
汚そうとしないで。

自分の感じた痛みを味合わせようとしないで。

それは意味がない。
全部自分に返ってくるよ。

世界にさらなる泥をぬりつけたのは自分だ。




――――――――――----------------



洋楽のヒットチャートのランキングを見た。

MVと音楽と歌詞と…



上位の曲を聴いていて、
いくつかについては正直「………」ってなった。

クラブミュージックとして、
ノリよく流せるように設計されていると思う。
そして成功しているとも思う。
だから「Cool」なんだとも思う。


でも、それらの曲に少しの違和感も混じらず聴ける(ノレる、入り込める)状態っていうのは、結構な神経麻痺状態で、たぶん自分自身が大っ嫌いなときだろうなと思った。


自分のいちばん大切で無防備な部分に何重にも蓋をして、
そんなものはなかったとうそぶいて、
痛いのを誤魔化すためにもっと強い刺激を求めるとき。

もっとちょうだい、もっともっと刺激を。



本当にほしいのはそれじゃないのにさ。



でも、そういう音楽がヒットチャートの上位にたくさんあるってことは、
わたしたちが酩酊した無意識状態ってことだからね。

めっちゃ病んでるなって思っちゃった、
陽気で強気でセクシーな洋楽聴いて 笑



でも、人間は、病んでいたいのかもね。



内側見るのって全然気持ちよくないし、
集団でハイにもなれない。孤独だし。




わたしはとりあえずそれを見て、
わたしはあそこに戻りたいか?名残惜しいか?
と自分自身に問いかけるチャンスとしました。


わたしにとってその世界は、正直まだ誘惑パワーを持ってるんだけど、
頭は誘惑されども身体は胃もたれみたいになるんで、結論NOですね。



―――――――------------------



今日は、お肉を少し多めに食べました。(家族でバーベキューだったのです)
無意識じゃなくて、ちゃんと自分の意志で選択した結果、食しました。笑

好奇心と、すこしの気遣いがあって口にしたのですが、
これぐらいなら別にいいだろうと思っていたのに反して、
お腹の具合が明らかによくない…
(味は美味しかったですよ!)


次はもっと慎重になると思います。
口にしないという選択肢も現れてきました。



なんかなー…

数か月前よりももっと厳密に、
身体が動物性の食品を拒むようになってきた気がする。
(植物性を求める、ではなく)

お酒も、そうかも。
(全然飲みたくない、飲んだら飲めるけどテンションが上がらない)


前は、そっち側の世界へ切り替えていこう!と自分から思ってた感じでしたが、
今は、あっち側の世界にはもう戻れないところに入ってきたかも、という感じ。
ちょっとだけ戸惑いがあります。



わたしに完全なる選ぶ権利と自由が与えられているということは、
わたし以外が決してそれを正したり否定してくれないということでもあって。

すごくプレッシャーのかかることでもある。


全部「OK」だし全部「いいよ」だから。


誰かが止めてくれる、
誰かが助けてくれる、はない。

瞬間瞬間にわたしが何を選ぶか、何を見ようとするかだけ。


依存はない。


というよりも「依存していたいなら依存もいいよ」なんだけどね。


そういう厳しさがある。




タイトルとは離れた内容になってきたので、
このへんで。
おやすみなさい。




2017年4月28日金曜日

所詮あなたは人間なのだ



内観を続ければ続けるだけ、
自分が大した人間じゃないことがわかる。

汚くていやらしいことを考える、器のちーさな人間。



内観とか瞑想とか、
やればやるだけ「聖人」みたいな綺麗な存在に近づけると思ってた。

だから頑張らなきゃと思ってた。


「愛と光」になるために 笑




でもその発想でのスタートがそもそも間違いだった。

やればやるだけ、
自分がいかにどうしようもないかだけがわかった。


自分が「これは絶対に善」と思っていたことすら嘘で、
その裏っかわには汚い計算や依存が混じっているのを何度も見つけた。


おお、

思ってたのとちがう!


これは、全然思っていた「愛と光」の道ではないぞ?
と気づいた。


「自分」というものが、いかに「我」で、
残念な思い癖とそこから派生する感情と行動パターンで成っているかがわかった。



だから別に内側見てても幸せな気分になんかならん。

だって汚いんだもん。


自分がこんなにちっぽけで卑しくてずる賢いとは思ってなかった。
それどころか清く正しく美しい存在だと思っていた。

まじか。

あまりに勘違いひどすぎてわらけてくるわ。
自分をわかってないって怖いね~





でも、それを一端受け入れると、
すっごく楽にはなる。

人生が楽にはなる。




自分の中身がここまでカオスで残念な感じだと、
「いつも笑顔で清く正しく」なんて、
うすっぺらで寒々しい標語にしか思えない。


ムリムリ、それ演技しないと無理だから。


目指そうとも思わんわ。
遠すぎて。


無理して演じたところで、
たぶん見えない変なガスが出るし、
嘘ついたストレスとまったく同じ分量で自分の内側にまた澱がたまるだけ。

それまたドブさらいしないといけないんでしょ、自分で。


やってられっか。


―――――――――――――――――――



このblogを読みにきてくださっている常連の方は、
たぶんわたしに似たタイプの方が多いんじゃないかなと思います。


なんか嫌なことがあっても、
人を責めるとか悪口を言うというよりは、
「わたしが悪いんだ」って自分を責める系の 笑

悪口言うのは人への攻撃だけど、それよりは自分に攻撃したほうがいいと考える系の。

(そのほうが気が楽。というのは、そっちが正しいと思ってるから。「少なくともわたしは嫌なことがあっても悪口言ったりしないわ」的な自分へのアピール混じってました、わたしの場合は)


それ、たぶん自分に期待しすぎですね。笑




そんなあなたに贈ります。


わたくしの敬愛するOSHO様のお言葉です。



「所詮あなたは人間なのだ」

わたしはこの言葉にすごくほっとしたことがあります。


わたしは所詮人間なのだ。
何様のつもりだ。
思い上がりも甚だしい。

天使にでもなったおつもりですか?笑 (←鼻で笑う)


「愛と光」なんて目指さず、
不可能な何かを自分に求めるのもやめて、
普通にのんびり世界の端っこで生きて、それでいいんだよ。


そんな風に思います。




※「愛と光」と「透明」はわたしの中では完全に別です。
「透明な自分」とは、「かくあるべき」の一切を落としたあとのピュアなカオスって意味なので。それがカスだったらわたしがカスなだけです。




2017年4月26日水曜日

わたしはわたし以下の透明度の相手を選ばない



Jと接触したばかりの本当に初期の段階で、
ほぼパーソナルな会話はしたことがない段階で、
彼が「I wanna kill him.」と言った。


HIMが指すのは、北のトップであるキムさんのこと。


彼の友人が、
韓国海軍時代に北との衝突で殉職したという話だったと思う。

どんな流れでそんな話題になったかも覚えていない。


ただわたしは、
「Stop, I don't wanna hear that」と彼の話を遮った。
彼は少し苦笑してすぐ話題を変えた。






わたしは彼といて嫌だと思うことは一回もなかった。
他人といる気がしなかった。
「それはほんとうのあなたですか?」と思うことは時々あったが、
それ以外の違和感はなかった。


だけど、今でもその会話を思い出す。




わたしは、彼の中に、
怒りや悲しみ、憎しみ、無力感を見た。


そして、彼がその彼のままであるなら、わたしは受け入れられないと思った。

わたしは今も彼を忘れていないが、
それでもあのままの彼なら受け入れられない。



【怒りや悲しみ、憎しみ、無力感】モロモロ、
全部自覚して意識化して自分でどーにかしてからこいや(どこにだ)と思う。



こんな記事も書いた↓
【参考】わたしのために国を捨ててほしい


最近まで、なんで自分がそこまで厳しくなるのかわからなかった。

でも、
【参考】あなたの世界にはあなたの何が映ってる?

この記事で書いたことが理由じゃないか、と運転中に思った。



彼の中に葛藤があるなら、
それはただあるだけだ。


怒りや憎しみを北のトップに対して持っているとすれば、
それは本当はただ怒りや憎しみを持っているだけ。


方向性は関係なく、
彼は怒りや憎しみを持っている人間、というだけで、
それはそのまま現実に反映される。


誰に対しての怒りなら正当で善いもの、なんてあるはずがない。

それがなんに対しての怒りであろうと、
その人は「怒りを持つ人」であるだけなのだ。






人間は弱いものだから、
助け合って支え合って弱さを許し合って生きていく。

そういう風には、
わたしは今は思えない。


正確にいうと、
それを言う人によって、そうだよね、と思うことももちろんあるけれど、
たいていの場合は共感できない。
(その人の無意識の意図やのってるエネルギーによる)

依存の泥沼に見えることが多い。



だから、それが特別に深くコミットする相手なら特に、
そんな「本来の相手にはなかったもの」は受け入れられない。


わたしは、
わたし以下の透明度の相手を選ばない。

同等、しかありえない。






弱くてもいい。

わたしも弱いし汚いし特に優れた部分もない。

だけど、それをまっすぐ見る強さを求めたいと思っている。
相手にもそれを求める。


目をそらすほどに弱くあってもらっては困る。



それはそのまま自分自身への言葉になる。

わたしは彼に自分を見たのかもしれない。


もし一緒にいても、
今の自分たちのレベルでは、関係が深くなればなるほど、
これまでにため込んだたくさんの「色」を、お互いに投影する。

どうしてわかってくれない?
この人だって今までの人と同じだ、って。

見たくもないものを相手の中に見て。


そうなることをうすうす感じていたから、怖かったのかも。





わたしはどこまで自分に戻れるだろう。




Michael Jackson - Human Nature (Live At Wembley July 16, 1988)



素朴でシンプルであり続ける選択は、
この世界においては何より難しい。


難しいというよりは…

誘惑が多すぎて。


特別に見られたい、
特別に見たい、
成功したい、
わたしはこういう人間だ(という思い込み)、
楽しくハイになって大勢で盛り上がりたい…

ずっとそうやって生きてきたし、
多くの人がそうしている。


その中で、赤ちゃんのように、
そこにいてそのまま在る、
なんでもない「本来の自分」を生きるというのは、それ自体がチャレンジ。



誰からも強制されることなんかないし、
別にそうしなくていいところを、
自分の意志でやる。

いつだってその挑戦から降りられるというのも、誘惑のひとつ。




好きな人のために綺麗になろうなんて思わなくていい


好きな人、これから出会う特別な誰か、のために何かをする必要はない。


能力を磨いたり、
綺麗になろうともしなくていい。


そう考えるのは、
別に美しくも健気でもなんでもない。



「綺麗」にすらならなくていい。

ただ、自分に違和感のない自分であればいい。



こころに嘘はないか、
誰かに言われた言葉のために自分を裏切ってないか、
誰かに認められたくてやっていることはないか、

「本当のわたし」の感じ方で、これが「わたし」だと感じられるだろうか。



好きな人のために綺麗になろうなんて思わなくていい。



でも、

それはあなたの本来の姿と相違ないか、は確かめたほうがいい。


外見だってそう。
それが本来のあなたを表現するものかどうか。




わたしは、これだ。

これがわたしだ。


わたしはこの自分を表現したくて、
感じたくて、
そのために生まれてきたんだ。



そう思えるかどうかが自分の命にとっては唯一最大に重要なのであって、
他の誰かなどそれに比べたらどうでもいいことだ。



それが自分の子どもでも、
親でも、
恋人でも、
世界でも。

あなたがあなたでいようとするとき、気にするに足らない。


何一つ、
誰一人として脅かせるものはいない。



世界にはあなただけだ。





2017年4月25日火曜日

LOVERS



媚びる女は好きじゃない。
媚びる男も好きじゃない。

偉そうな女は好きじゃない。
偉そうな男も好きじゃない。

強くて優しい女は好き。
強くて優しい男も好き。

しょっちゅう嘘つく女は好きじゃない。
しょっちゅう嘘つく男も好きじゃない。

頭のいい面白い女は好き。
頭のいい面白い男も好き。

弱いところを自分で受け入れている女が好き。
弱いところを自分で受け入れている男も好き。

綺麗な女が好き。
綺麗な男も好き。

馬鹿ができる女が好き。
馬鹿ができる男も好き。

馬鹿な女は嫌い。
馬鹿な男も嫌い。

エロい女が好き。
エロい男も好き。

自由で勇敢な女が好き。
自由で勇敢な男も好き。


自分を知っている女が好き。
自分を知っている男が好き。





女も男も同じかも。




女と男で身体のつくりは違うし、
頭のつくりだって違うかもしれない。

社会から受けてきた教育も、
社会の中で求められることだって違うかもしれない。




でも、わたしが相手を見るとき、
自分と同じだとちゃんとわかっていたい。


甘えられたい、
頼られると自分には力があると自信が持てる、
いつでも見ててもらえたら愛されていると安心できる、

そんな関係願い下げだ。



存在は50:50だ。

いや100:100だ。

自分自身で立っている木が少し離れて二本あるだけだ。


誰であろうと、
隣にある木に影響されてたまるか。




「女だから」「男だから」

それは本当にそうか?

そう言っていたほうが楽だから、
そう言っていたほうが自分を改める必要がないからじゃないか
自分の中の不要な概念を捨てることから逃げているのでは、
と常に戒めたい。



パートナーにやられて嫌なことは、わたしもしない。



もし特定の誰かに深くコミットできる機会を与えてもらえるなら、

赤ちゃんや小さい子ども同士のように、
異性を意識していなかった頃のように、

そういう枠を知る前の自分たちで、この世界で助け合って生きていきたい。


親友であり同士として。




だから駆け引きなんて必要ない。

だましたりだまされたりなんていらないし、
存在しないもの。




好きだから一緒にいる。




それだけじゃやっていけないという人たちは可哀想だ。



でも本当は、
その人たちの関係は最初からそうじゃなかったんだよ。


「純粋な好き」じゃなかったから壊れた、
ただそれだけのこと。


好き、に激しさはない。
自然であり調和があり流れの上での必然という意味。




二人は社会のために生きるんじゃない。

そんなもののために生きたりしない。






以前にこんな記事を書きました。
【参考】男と女、かくあるべき論(ru ver.)

これも、もしかしたら違うかもって思い始めてる。




瞑想で何を達成しようというのか。彼らは同じ人のままだ。「JOY」by OSHO


わたしはOSHOの言葉を読むのが好きだ。



一言一言すべてに明確な意図があって、
理知的かつ詩のように美しく、
常にシビアな視点からこの世界の常識に対して反逆的だが傲慢さがなく、
当然だが媚もなく、
一文一文の均整がとれており、
伏線になっており、
さりげなく広げられたものたちすべてがさりげなく回収される。

すべての言葉が、シンプルで過不足ない。
大げさすぎることも極端に強すぎることも下品であることもない。


読んでいるとこころが静かになる。


こんなの、
「頭がいい人」が思考で話そうとしてもできるものじゃない、と思う。


だから、何か落ち込んだときや知りたいことがあるとき、
わたしはOSHOの言葉を探す。
(世界中の人があらゆるジャンルのトラブルについて過去にOSHOに助言を求めているので、たいていわたしの抱える問題についても語っているから)



以前は恋愛がうまくいかないときに手に取った「JOY」という本から、
それについての記述を引用した。
「孤高な人と孤独な人」の違い、
「二人の惨めな乞食が出会う」という表現は刺さったね。笑

【参考】今恋愛で苦しいってひとへ荒療治 「JOY  byOSHO」から引用☆



今日も「JOY」から。


ある人は美しいダンサーになっていたかもしれないのに、彼女はオフィスに座って、ファイルを積み上げている。そこにはダンスをする可能性は全くない。ある人は星明りの下でダンスを楽しんでいたかもしれないのに、彼は銀行通帳の残高を増やしているだけだ。そして、これらの人々は自分たちは不幸だと言う。「瞑想のやり方を教えてください」私は教えることはできるーーしかし、その瞑想で何を達成しようというのだろうか?それが何をもたらすと期待されているのだろう?彼らは同じ人のままだ。お金を貯め、市場で競争している。その瞑想は彼らを少しだけリラックスさせるのに役立ち、その結果、彼らはこの馬鹿げたことをもっとうまくできるようになるかもしれない。

(省略)しかし、それはあなたが何であれ、今のままにとどまるのを助けるだけだ。それは変容ではない。

だから、私のやり方は、本当に勇敢な人々、自分の生き方そのものを変える用意と、すべてのものを賭ける用意のある向こう見ずな人間のためのものだーーなぜならば、あなたには実は、賭けるものは何もなく、あなたの不幸、あなたの悲惨さがあるだけだからだ。

(「JOY」p.9ー10 まえがきより)




テレビを観ていて思った。



現代はストレス社会だ、とはよく言われる。

ストレスは身体に悪い、
病気になる原因はストレスだ、自律神経の働きを乱す、
ストレスは万病のもと、というのもよく聞く。



だから、ストレス物質●●を抑制する▽▽が入っている食品を食べましょう。

仕事の合間に■分の休憩(睡眠)をはさむと(瞑想すると)α波(θ波)が出てリラックスでき疲労物質が減るので効率的に作業ができますよ。

趣味はありますか?現代ではストレスケアも自己管理の一環です。



テレビでは、
たくさんのストレスがあることを前提に
その環境が変わらないことを前提に、
どうすればいいのかという方法をいくつも提案してくれる。


それが現実的なやり方なのかもしれない。



でも、

そういうのを見ていると、
まるで「ストレスを感じることが悪」みたいに思えてくる。

「ストレスを感じてしまう心の弱さ」
「ストレスを感じてしまう身体の弱さ」
そんなふうに軟弱な自分(人間)であることが悪のように思えてくる。



え。

「ストレス社会」が異常なんじゃないの?




でも、それが現状ならば、
それにあーだこーだ言うのはガキっぽいことで、
なるべく摩擦なく順応するのが大人というものだって、
割とみんな思ってる気がする。



じゃあ、わたしたちは、
死なない程度に生かされるために生まれてきたのね?

壊れない程度に無理させて。

痛みに慣れて感じなくなれば好都合だね。



壊れそうになったら対症療法で手を打って、
また次のストレスに立ち向かう。

そのために生まれてきたのね?



だとしたら人間ってまるでロボットみたいだな。




もちろんその中でだってささやかな喜びや日々の楽しみはあるし、

お酒飲んだり誰かの悪口言ったり、
好きなものを買って、
一年に一週間のまとまった休暇に海外旅行に出かけられる幸運を喜び、「非日常」を最大限に満喫し、

たまったストレスはなかったことに。



この時代にボーナス出るだけありがたいよ、
週二で休めるだけありがたいよ、
仕事があるだけで、
家があるだけでありがたいよ。

だって、それすらない人もいるんだから、
みんなガマンしてるんだから、わがまま言ったらバチが当たる。



それ考えるのが現代(日本)の社会だし、
それに従えないやつは落伍者になるだけだし、
ときどき朝の電車が止まっては誰かの舌打ちを耳にする。

そういうものなのかね。




「ストレス社会の中でどう病気にならないように生きるか」というテレビ番組を作ってる人だって、

眠くても眠らず、
静かな自然の中で何もせず何も考えない休暇を長期でとるなんて思いもよらず、
理不尽に怒鳴られても低姿勢で謝り、
栄養剤とサプリで心と身体を支えている人が大勢いるだろう。


だから、
そこからの情報は、その視点のものになる。

もしもっといい方法を彼らが知っていたなら、
それをシェアしてもらえる可能性もあるだろうけど。

みんな必死は必死だ。
誰も悪気なんかないのだ。

だから悲しい。





もしOSHOの言うように、
本当は星空の下でダンスを楽しんでいたかもしれない人がいても、
一生それに気づかないまま死んでいくとしたら、哀しい。




Ed Sheeran - Thinking Out Loud [Official Video]



この歌も、MVも好きです。

野性的で自由。ロマンティック。



いつだってこの気分で生きていきたいし、
こういう在り方で恋がしたい。





ここ1、2カ月で買ったお洋服たち♥(写真あり)


最近買ったものを紹介(メモ)します。
すでに以前の記事で載せたやつも含みます。







まずこのブラウス。(前載せたやつ)
沖縄だと今の季節で晴れてるときが一番着頃って感じ。

そのままデニムと合わせて着ています。







で、BC.STOCKで買ったこれら。
Tシャツ的なものが少なかったので、揃えられてよかった。

濃いピンク(赤とマゼンダピンクの間ぐらいの色かな)もグレーベージュも、
どっちもコットン100で、デコルテが広めに開いている。
好きなデザインです。





MICHIKO KOSHINOのバッグ。



上のカットソーとバッグとデニム。
(そういや無印デニムも一枚買い足したね)

バッグ大きいでしょ、結構容量あるんですよ…。
二泊ぐらいの旅行ならこれでイケる気がする。






あとユニクロでも。。
 この二色をお買い上げ。


スーピマコットンで、
着ると形もすごい綺麗なの。。。
痩せて見えるし丈も長すぎず短すぎず、リブでシンプルすぎない。
(これは、ru比較で言ってますよ)

別の色ももっと買い足しておこうと思う。

(写真はすべてユニクロHPからお借りしています。)
スーピマコットンリブクルーネックT(半袖)

ってか今季のユニクロ可愛いの多くない?!







このスカートもマンガ倉庫で。
ニット素材で、タグからするとLAブランドっぽい。

わたしにとっては、ちょっと冒険的デザイン!





前に載せた無印のニットジャケット。

画像は無印HPからお借りしました。
オーガニックコットンジャケット 紳士M・ダークネイビー


可愛くて好みなんだけど、
デニムと合わせるともたつく。。色も紺紺で重くなっちゃう。

ショートパンツとかとならすっきり見えるはず!






メルカリで買った、
ZARAの麻のミニスカート。

お直しに出してショートパンツにしてもらうつもり。
でも、タイトではないにしろそこまでの幅がないので、
パンツに直せるかちょっと心配。





以上です!!!!



以前のわたしは無意識に白&紺ばかりを手にとっていて、
断捨離したクローゼットを見てもそういうのばっかりだったんです。

で、赤とかピンクとかオレンジとか、
そういう明るくて綺麗な色の服がほしいな~って思ってて。


写真見ていただいても分かるように、
多少、前とは方向性が変わってきてる。

合わせやすいとかそういうの考えないで、
最初のインスピレーションで目を惹いたものたちだけ。


ちゃんと、全部キュンとするやつだし。
見ていてもうれしい。
これは、前の、結構高めのものを慎重に買っていたときには感じられなかった感覚。



しかも、別に高いやつばっかじゃないしね。


満足度高い!うれしい!




それでは、みなさんもよいお買い物とうれしい時間をお過ごしください(*´▽`*)




2017年4月24日月曜日

あなたの世界にはあなたの何が映ってる?



「世界は自分の内側の反映」の件について。

最近ちょっとイメージが湧いてきて、
自分的には理解が深まった感じなのでシェアします。

自分的にはおススメ記事なので、是非読んでください。笑


※ 外側に答えなんかない、のru的解釈 とはちょっと違う見方です。



☆☆☆


わたしたちが生まれてきたとき、
真っ白だとする。

真っ白というか透明だとするね。


その透明さは、何もない透明さではなくて、
だからすべての人が同じ透明さを持っているわけじゃなくて、

「その人らしい感じ方」という透明さ。


100%「その人らしい感じ方」で世界を感じられている状態が、
透明の状態だとするね。



でも、成長していく過程で、
いろんな「こうじゃなくちゃいけない」「こう感じてこう思わなくちゃいけない」っていう、たくさんのルールや思い込み、つまりは制限を受け入れていく。
そこから生まれる葛藤や感情もね。


その、無数の制限にはそれぞれ色がついていて、
もとは透明だった「わたし」に落書きがされていく。
(わたしにきたインスピレーションでは、透明なジュースにいろんな絵具が混ざっていくイメージだったけど、落書きのほうがわかりやすいかな。)


無数の色が、どんどん重なって重なって重なって混ざっていく。


そうして、どんどん「その人らしい感じ方」が分からなくなっていく。



でもわたしたちがまったくのゼロの透明ではなく
「わたしらしい感じ方」という透明さをもってこの世に生まれてきたなら、
それを感じることが目的だったということ。


だから、ぐちゃぐちゃの落書きがされて、
わたしたちは途方にくれる。

なんか違う、なんか違う、なんか違うんだけどどうしたらいいの?




そうして、
ようやく「わたしらしい感じ方」を取り戻そうとし始める。




でも、この無数の色たちが混ざったそれ自体を、
ひとかたまりの色として取り除くことはできない。


からまった糸のように、
一つ一つの色たちを、
「これはわたしの感じ方ではない」と取り除かなくちゃいけない。



でも、

赤も紫も黄色も金色も緑も…
重なれば重なるだけ、混ざってこんがらがって、
何色がどんなふうに混ざってるのか判別しにくい。



最初は途方もなく見えて絶望して嫌になる。
やるだけ無駄だ、それよりも今の自分の感じ方のまま、
より楽しい方向へいけばいいんじゃないか、と思う。


選択は人それぞれ。




☆☆☆




でね、

こっからが「世界は自分の内側の反映」の話!(長かった!ごめん)



わたしたちの内側にある
「無数の色で落書きされた透明」
「無数の色が混ざって濁り水になった透明のジュース」
が、わたしたちの内側。

わたしたちの持ち物


映画でいえばフィルム。


だから、それがそのまま自分の外側の現実に投影されて映される。



赤くてとげとげしたものが実は内側にあれば、
それはもちろん外側に映る。


薄い青が内側にあれば外側に映る。



悲しみが内側にあれば外側に悲しみが映る。


喜びが内側にあれば外側に喜びが映る。



こういうシンプルな仕組み、
というイメージが湧いてきたんです。



ただ、上に書いたように、
透明の上には既に無数の色で落書きがされていて、
どれがどれの下にあるのか上にあるのかわかりにくい。


どの色がそれを起こしたのかもわかりにくい。


でもわかりにくいだけで、
ちゃんとそこにあるので現実化はされる。



だから、望まない出来事があったら、
単に「何かあるんだな」と思えばいい。

で、「わたしはこれがいい」とシンプルに願えばいい。


すると何か起きるはず。
その過程で「こんなの無理だよ」と感情が乱れたり、
邪魔をする人が出てきたように見えたり。


そうやって自分の内側にある、
それに関係する「色」に近づいていく。
核心に近づいていく。


その色を見つけたら、手放すかどうか選択する。



現状、その色はそこに置いておいたほうがいい、
となるかもしれない。
それもあり。

先に別の色を取り除いたことで、
その色も薄れて消しやすくなっている可能性だってあるし。


それを続けていって、

色数が少なくなるだけ、
その色がもたらすインパクトは強くなる。
ビビッドな影響力をもつ。

存在することでもそうだし、取り除かれたあともそう。



やればやるほど自由になる。
だから最初のうちが一番きついはずだ。



☆☆☆




わたしが透明になりたい、クリアになりたい、と望むのは、

「わたしらしい感じ方」の透明さを知りたいから。



今はどうやってもわからない。


一枚一枚、
一色一色はがしていって、
色の重なりが薄くなっていっているのは感じる。

濁りがだんだん透明に近づいていってるのは感じる。


だけど、まだ別の色。




ただ、「わたしらしい感じ方」の透明で見る世界は、
今見ているものとは全然違うはず。

だって「わたしの感じ方」が違うんだから、世界は別物だ。




そうだ、書くの忘れてたけど、
これが腑に落ちてから、
時間なんて存在しないっていうのがちょっとわかった。


っていうのは、

透明の上についた色たちが、
いつどんな経緯でついたかなんてどうでもいいということ。


大事なのは、今そこにあるということ。

そして、今そこにないということ。(ないは別に考えなくていい)


自分の内側のジュースにその色が混じっていれば、
自分の見る外側の世界にはその色が混じるということ。


いいとか悪いとかは全然ないってわかるよね。


そして、
それは外側の誰に同情してもらえるかどうかは関係なく、
自分が見つけて手放さない限りはそこにあり続けるということ。


今そこにあって、
今それによって外側の現実が現れてくる。


過去何があってとか、
未来に何が起こりそうとかはどうでもいい。


今、内側に何があるか、だけ。


重要なのは、わたしが今何を持っているか、だけ。




☆☆☆




だから最近は、
「嫌な事」があってもそんなに嫌じゃない笑


だって、自分の中にある色に気づくチャンスだから。

そう、本当に思ってるから。
(前よりはだいぶそう思えてる)


わたしの中に何があるか、どんどん見せて、早く見せて、
って感じ 笑


そうすればその分早く選択ができる。
そうすればその分早く「わたしらしい感じ方」の透明に戻れる。



まあ、
それは、それをわたしが望んでいるから、ってだけで別に正解ってことでもないし、
人によってはたくさんの色がついてるけど綺麗な色だからいいよ、
って人もいるだろうし。


そこはやっぱりお好みでしょう。



わたしはどうしたいか、
あなたはどうしたいか、
それだけが問いであって、答えでもある。



焦ってもしょうがないという意味がわかります。




以上です。





2017年4月23日日曜日

いい子ぶりっこと悪い子ぶりっこ



Happyちゃんたちがやっていることや言っていることの中で、
自分の中で「ん?それは新しいな」とか「ザワっときたぞ」とか、
とりあえず試したいと思ったことはできることから試してきた。

とにかく自分の枠を広げたいという気持ちがあって。

(Happyちゃんの言ってることの中で一番影響を受けたのは、
「データもらいっ」の感覚です。なので、彼女たちだけじゃなくて、いたるところからデータをもらってる感覚で生活してます。)



その中の一つが、

何度も書いているけど、
「食べたいものを食べたいときに食べたい分だけ食べる」
というチャレンジ。




わたしはもともとベジタリアンとか健康食志向で、
徹底はせずともそういうのが好きだった。
そういう食事の根底に流れるコンセプトというか思想というか佇まいも好きだった。


食べることはいのちを頂くこと、であったり、
だからこそ、ものを粗末にしないで生かし切る、であったり。

すべてのものに尊敬の意を示すことを、
食事のありかたを通しても体現することに共感していた。





なんだけれど、


そういう好みがあるのはわたしが小さい頃からなので、
自分にとってはすごくおなじみの思考法。


なので、もしかしたらそれが極端な偏りになっていたり、
食に対してもっと大らかというか鷹揚に構えることもできるのかも…という気持ちもあり、
「ファストフードも美味しく食べてみよう」
「インスタントラーメンも食べよう」
「お肉も、少なくとも出されたものは気にせず笑顔で食べよう」
「コンビニのお惣菜も、身体にいいと思って食べたら美味しくて身体にいいのでは?」
「寝っ転がったり、テレビを観たり、食事へ集中しなくちゃという縛りを解いて食べてみよう」

と思って、しばらくの間、どちらかというと「身体に悪いとされている」ものばかり食べてみた。



結果、

わたしはやっぱり、
なるべく野菜中心で自然なものをシンプルに丁寧に調理して、
それをなるべく見栄えよくお皿に盛り付け(これはわたしのセンスという制限がありますが笑)、
なるべく整えられた環境の中、
ゆっくり静かに食事に向かい合うほうが、
満足度が高いということがわかりました。



「こうでなきゃいけない」を外したくてやってみたチャレンジですが、
やってみて良かったと思います。

並行して、「お金を使う」や「コンビニを気軽に利用する」の
チャレンジもできたので。


食べ物を残す、ということについては、
現在も罪悪感がありますし、
でもこれは外したい罪悪感だと思っているので挑戦は続行します。
(自分の感覚を優先、という挑戦が一番の優先事項なので。)



なので、
スタートに戻ってきたような気がしたとしても、
わたしの中の自由度は高まったと思います。

わたしは結構極端に行動するので、
「断食してたと思ったら、今はアイスとUFO焼きそばですか?」
「結構なんでも受け入れるんだね」
みたいに家族や周りの人に思われてますけど笑、

いーーーーーんです!!!!



同じように見えて同じじゃないんです!!!!!!!!
わたしにしか分かんないかもだけど、
わたしの中には少し自分を知ったという変化があるんです。




たぶん、Happyちゃんは、
「こーでなきゃ、ちゃんとしてなきゃダメだ!!!!」って、
すごく四角定規というか視野が狭まって苦しくなっている人にむけて、

こんなダメでちゃんとしてない自分でもいいんだよー
ってメッセージを送ってくれているんだと思いますが、

それでわたしなんかは、
逆に「ダメ」とか「悪い」とされていることをやってみたら、
もっと自由になれるかも!と思ったわけですが、

それも全部人の好みとジャンルによる、ということが分かった。




たとえば、

わたしは精進料理が好きで、
茶道の凛とした静寂の場も好きで、
生き方や在り方についてストイックな人の佇まいも好きで、
「そんなのもっと雑でいいじゃーん」と言われても見当違いの提案ですが、

(いや、「そうじゃなきゃダメ」と苦しい人にとっては正しいアドバイスですが、わたしは厳格でもないし、もともと好みのレベルでゆるいので。)


もともといい人仮面をつけて生きていたわたしの、
「絶対挨拶はする」
「悪口は駄目」
「人のことを嫌いと思うのもダメだし言うなんてもってのほか」
「さぼるなんてありえない」
「お金の無駄遣いとか許されない」
という思い込みたちは、わたしにとってはとても苦しいものだったので、

「そんなのさもっと適当でいいじゃーん、人に嫌われたってムカつくダメ人間って思われてもいいじゃーん」
っていうパンチはありがたいものでした。


【参考】飛躍はせずとも変化はしてた28さい(お断り:長いですよ)
【参考】ダラダラ気持ちよく生きてやる、わがままの目覚め。29さいの目標
↑「いい人」をやめようと決意して、怖々トライしていた頃。心屋さんを知ったのはこれのちょっと前だったな。

【参考】わたしがサボるなんてありえなかったけど今はインチキしてます
↑もう二年近く前。当時は怖かったなぁ。

【参考】あばよベスコンプレックス
↑これに気づいて、わたしは相当楽に自由になったと思う。




まあ、これもトライしてみないと、
これらが自分の好みなのか外側の情報によって制限された上での選択なのかわかんなくてモヤっとすることがあったでしょうから、いい経験でした。

そして、
そもそもあんまり厳密にやらないっていうのがわたしのこだわりでもあったので、
それも確固たる感じになったし笑、単純に選択肢も増えてよかったです。




でね、
わたしこういうの時々やってないか?と思ったんですね。

【参考】なぜか「自分は間違っていてみんなは正しい」と思い込んでいた

この記事に書いたことです。


わたしには、ビニール傘を買って使い捨てるという感覚がどうしてもなじまなくて、
でも周りの子たちもそういうの気にしてないみたいだから、
「きっとわたしが気にしすぎなんだ、
わたしもビニール傘を使い捨てることに慣れよう!!!!」
と考えるみたいな。

「浮いてる」とか、「まじめ」、
「いい子ぶってる」と思われるのが嫌だったんですね。





わたしは小さい頃から、
人間の行為によって地球が痛がっているという感覚が強くあって、

人間が海を汚したり、捨てたゴミによって野生の生き物が死んだり、
どこにでもあるようなショッピングセンターをつくるために森林を伐採して土地をたいらにしたり…、

見てるだけで身体が痛むようだった。


でも、そんなのいちいち気にしていたら、この世界では生きていけない。


ネイティブアメリカンだって、
世界中の少数民族だって、
「文明」をもつ人々に侵略されて壊され飲み込まれていったじゃないか。

きっと強いほうが正しいし、
勝って残っているほうが正しいんだ。


キレイゴト言ったってわたしだってその文明の中で生きている。

弱いとものも言えない。
誰にも聞いてもらえない。
じゃあ、強くなるしかないじゃないか。
野蛮に、無神経に。



そして、自分の柔らかいところを殺した。



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最初のHappyちゃんたちの話からは、
だいぶ遠くまできてしまいましたが、
ビニール傘の話がなぜか浮かんできたので書きました。


今は、
「いい子ぶってる」とはじかれる怖れからの脱却をするときかな。



「いい子」とか「悪い子」はないんですもんね。
やりたいこととやりたくないこと、好みがあるだけ。


それをもし
「いい子ぶりっこすんな」という人がいたとしたら、
その人にとっては相手サイドが「善」で、
その人自身の望みや在り方、存在は「悪」だとその人が判断してるってだけ。



ほんとはどっちがどうなのかなんてわかんないよな。



ということで、オワリ。