2017年5月25日木曜日

純粋ではなく愚かだと知れ



闇雲に信じるのは、純粋なのではなくて愚かなだけだ。



赤ちゃんは、
怪しい人が近づいてくると泣くし、

動物もその気配を察知して警戒モードに入る。





もし、
「信じてたのに」と被害者でいようとするなら、
それは自分の愚かさを露見させるようなものだ。

恥の上塗りだ。




「信じたかったもの」

たとえそれが、
大好きだった人の一言でも、
学校の教科書で習ったことだとしても。





信じるかどうかは自分で決める。

間違えたと感じるなら、
どこをどう判断ミスしたのか、
正確な判断の妨げとなったのは何だったかを自分に確かめる。

それさえもせずただ嘆くとしたら、
完全に依存体質で責任転嫁するだけの人間であると告白しているようなもの。



きっとまた何かを「信じて」
きっとまた「間違え」
「信じてたのに裏切られた」と嘆くことだろう。

知性がない。
覚悟もない。

それこそ自業自得。



それはあなたが純粋ではないからではないだろうか。





人の生き方の好みについて、
ああだこうだいう趣味はないけれど。






わたしたちの代表が愚かだとしたら、
それはわたしたちが愚かだからだ。

わたしたちの平均をとったら、だいたい代表になる。


わたしたちが賢ければ、
愚かな代表が代表であれるはずがない。


愚かなのは「わたしたち」であって、「彼ら」ではない。

「わたし」であって「彼」ではない、ともいえるか。




そうやって、自分に力と責任を取り戻していく。

それが、逃げないということだと思う。




逃げない理由は、
あとで自分が後悔するから。

ただそれだけ。





2017年5月24日水曜日

近況報告



もうすぐこの「ちきゅうはじっけんしつ」は閉じると思います。


その前に、今の状況をば。
近況報告的な。






今のわたしは、自分の内側に意識をむけることを訓練中です。
まだまだです。
気づいたときに内側を感じる、という感じ。

これをもっと習慣づけて、
いつかは当然のように在りたい。





食べ物も、発酵食品をつくる&食べることを続けています。
(二度目の甘酒も水キムチも成功。ザワークラウトもつくるようになりました)
お通じもよくなっているし、
何よりそれができる過程を見ているのが楽しい。

そしてそれを口にするときも、
自分を大事にしている感じがしてうれしい。

あ、発酵食品以外も9割以上は植物性の食品です。
母がつくってくれたものを食べるときには、
多少お肉や魚もつまみますし、鰹節のだしなんかは受け入れていますが、
自炊するときにはそういうのも入れません。
(でもめんつゆとかに入ってるのは避けてません)

実感としては、動物性のものに対しての欲求を抑えている感じもしないし、
とても自然な食生活のように感じます。
だいじょうぶです。

こういう風に食を変えてから、酢やお酒、ごまや海藻、ナッツなどを多用するようになりました。
風味と歯ごたえさえあれば、物足りなさも感じないです。






日常では、やっぱり交友関係は狭まったままです。
土日はひとりで過ごすか、家族と過ごすのが普通です。
外出も全然しますが、基本一人。
淋しさはありませんが、家族は、こいつ大丈夫かなって思ってるかも。
だいじょぶです笑

合わない、とか、嫌い、とか、
明確に思うわけではないのですが、
この人に会いたい、という気持ちが起こるまでは一人でいるのが自然な気がします。
誘われても出向きません。

億劫に感じたときでも、自然の中にいくと気持ちが広がるのを感じます。







気になる人ができました。
でも恋愛をしたいとは思っていないので、自分の気持ちがどこへ転がるかは様子見です。
Jのことがいつでも気がかりです。






ただ、静かになっていきたいです。

ハイになりそうな自分を諫めて、
大げさに悲しもうとする自分を諫めて、
ニュースに怒りを感じたり落ちこむ自分を諫めます。

おまえは本当に、そう在りたいのか?


人の目も気になるし、
この世界でうまくやっていきたいという願いも消えない。

だけど、何が大事なの?と思います。


間違っているかもしれない、だけど何を信じたいの?






そんな感じで最近を過ごしています。




2017年5月17日水曜日

こころもとないままでいいとしたらどうしよう



こころもとなく感じる。

だから確実にしたいと思う。




壊れないように、
間違えないように、
すぐに破れてしまわないように、

あとで、違ったと思わなくてすむように。
過去の自分を恨まなくてすむように。


そのための安心がほしい。



安心がほしくて、じたばたしてるんだ。
怖いから。



そして、努力次第では安心が得られると思ってる。

いつか、確定的でぐらつかない足場を得られると思ってる。




でも、こころもとないのが自然だったらどうしよう?



こころもとなくて、
かなしくて、
不安で、
自信がなくて、

それがわたしたちの自然だったらどうしよう?



それでいいのだったらどうしよう?



じたばた努力することで、

ほんとうのくつろぎや何も確定的なものがないという安心感から、
離れているとしたらどうしよう?






こころもとないままでいいとしたら、
わたしは、望みを失うと同時に安らかになれる。


その状態を望んでいたわけじゃないけど。






2017年5月16日火曜日

【群衆】ひとりでいるのが淋しいのは、何かがおかしいのではないか


思考と感情は不純なもの、
不要なものだという言葉に出会った。



人間の感情はすべて憎悪であるとも。



前にもご紹介した
もののケのしおりちゃんという女の子の話していることなんだけれど、

興味があれば、
もののケのしおりちゃん Twilog(最近のものは非公開)
をごらんになってみてください。





わたしも、きっとそうなんだろうなと思ってる。

もちろん、
いくら不純だと言われても、
わたしの頭はその不純なものでいっぱいで、
いまだなくすこともできていないんだけれど。





わたしたちは幼い頃に、
「みんなで仲良くしましょうね」と習うので、

物理的にひとり、
心理的にひとり、

であることをネガティブなものだと思ってる。


ひとりになることを怖れている。





たとえば、
いろんなことにチャレンジして失敗することが怖いのも、
「お金が稼げない」とか、
「親の顔をつぶす」とか、
「尊敬されなくなる」とか、
いろいろ無数に理由はあげられると思うけど、

結局深掘りしていったら、
「ひとりぼっちになりたくない」が出てくると思う。






以前にHappyちゃんのインスタ配信を見ていたとき、

「周りに、不安だらけの人しかいなかったら、失敗するのが怖いけど、
うちらみたいに「失敗、うけるー」って言ってくれる人ばっかりが周りにいたらどう?
チャレンジしても、失敗しても大丈夫だよ」

みたいなことを言ってた。



あの発言は、人を勇気づけるものになっていたと思う。




ただひとつわたしにあった違和感は、「仲間」。


「みんなで一緒にチャレンジしてくなら、怖さも減るよね」
という認識。





上記のしおりちゃんは、すべての「人間関係は不要」と言う。

自分と繋がってさえいれば。




わたしが、仲間をほしがる感覚になじめなかったのは、

「じゃあ仲間がいなければやらないの?」
「結局外側次第で自分が望むことをするかどうかを決めるの?」
「外側が内側に影響するの?」
「仲間と思ってる人が自分の望むことを理解しなかったり嫌がったらやめるの?」

って問いがずっと消えなかったから。



違うだろ、と。




チャレンジとかジャンプというものは、結局誰の後押しもなく自分で選ばなきゃ、
傍目から見てそれが「跳んだ」ように見えても、

結局は依存の域を抜けてないんじゃないか、と思った。




そういう視点での「仲間」は、覚悟や自分の負うべき責任を免責、減免させるためのものでしかない。







OSHOの言葉を載せます。







孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

 私はひとりでいるときはいつも、かけ離れ、孤独で、惨めな感じがします。私は他の人たちと一緒にいるときしか自分を愛せません。独りだと、恥ずかしくて、自分が好きではありません。まるで私は他人の目を通して自分を評価しているように思えます。


 それは根本的な問題のひとつだ。人間ひとりひとりがそれに直面しなければならない。
 それはあなただけではない。子どもたちの育て方が、この惨めさ全体の原因だ。あるがままの自分で認められている子どもは、ひとりもいない。両親、先生、年長者たちの指示に従えば、彼は褒美がもらえる。これらの指示は、彼の自然さに反するかもしれない。なぜなら、これらの指示は、彼によって、あるいは彼のためになされたものではないからだ。誰かが5千年前にこれらの原則をつくり、それらがいまだに子どもたちを育てるのに用いられている。
 当然、子どもはみな、置き換えられる。彼は本来の自分ではない。自分自身ではない。彼は誰か他の人だ。その誰か他の人は、社会によって、他人によって与えられている。
 だから、あなたがひとりで、あなたに指図する人が誰もいないとき、あなたはただ自分の本性に寛ぐ。演じる必要は何もない。見ている人がいないからだ。その、自分の本性に寛ぐことが、あなたに罪悪感を抱かせる。あなたは自分の両親に、聖職者に、社会に逆らっていて、彼らはあなたに、あなたは、あなた自身では、正しくないと言っているからだ。あなたはそれを受け容れたのだ。それはあなたの中で条件付けされたものになっている。
 あなたが自分でやることはすべて、つねに非難され、あなたが他人に従ってやることはすべて、つねに褒められる。
 あなたが独り在るときには、他には誰もそこにいない。当然、あなたは役目を果たす必要はない。あなたは偽善者である必要はない。あなたはあるがままの自分に、ただ寛ぐ。だが、あなたのマインドは他人から与えられたゴミでいっぱいだ。
 だから、あなたが他の人たちといるときは、その他の人たちがあなたに指図している。そして、あなたが独りのときは、他の人たちによって作られたマインドがあなたを醜く感じさせ、罪悪感を抱かせ、価値がないと思わせる。
 人びとが独りになりたがらないのは、そのためだ。彼らはつねに、他の誰かといたがる。他の誰かといると、彼らは自分の本性に寛ぐことができないからだ。他人の存在が、彼らを緊張させておく。他人がそこにいて、あなたが取るすべての行動と仕草を瞬間ごとに判定しているのだ。
 だからあなたは、正しいと教えられた、ある行動をただ演じる。それで、あなたのマインドは気分がいい。それは条件付けに沿っている。あなたがうまくやったので、あなたのマインドは幸せだ。あなたは素晴らしい。
 人びとは群集を必要とする。これが、彼らはなぜつねにヒンドゥー教に、キリスト教に、イスラム教に、この国に、あの国に、この民族に、あの民族に属したがるのかという、心理的な理由だ。 たとえそれでは物足りなくても、彼らはロータリークラブ、ライオンクラブをつくる。




元文はコチラ→「孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

(もっと長いし面白いので続きも読んでみてね)





OSHO HPより引用させていただきました)









わたしたちは、「ひとりになりたくない」と言うけど、
しかもそれが行動選択の最も深いところにある切実な動機になっていたりもして、

さらに、
それは弱い人間ゆえに仕方のないことであり克服する必要はないもの、
だと思いがちだし、

それを「人間の哀しくもいじらしい、可愛さ」だととらえ、
それゆえに「人は人と深く結びつこうとするし、絆を築ける」とポジティブ解釈さえする向きもあるけど、



本当にそうなんだろうか?





わたしたちが「憎悪」ゆえに求める「人間関係」は、

ほんとうにわたしたちが求めるものなんだろうか?




まだ、答えは出ていません。








2017年5月11日木曜日

お通じ解消のためにしたこと&発酵食品(水キムチ、甘酒)づくりしてみた♥



便秘解消しました!


荒れて吹き出物まで出ていた肌が、
よーやく元通りに。。。!!!

うれしい。。。。





何が良かったのかわかりませんが、
変えたことをあげてみます。


イロイロと「取り込みすぎ」が原因じゃないのかという自覚がありましたので、
やったことは大きく分けて二つ。

取り込むものの質を選び、減らし、
とにかく出すことを最重要課題とする!!



【情報系】
・情報の取り込みの制限(SNS離れ)
・blogでアウトプット

・↑に通じますが、内観
便秘をどーにかしたい!内観してみた。
自分を信じて守り通すことができるだろうか
きたものは全部出す。現在脳の排水中。



【食べ物系】
・食生活の変化(ジャンクを減らし、菜食中心に)
・食事量を減らす(空腹感がないなら食べない)
・乳酸菌飲料を取る(ミルミル♥好き。。)
・甘酒づくり&水キムチづくりに挑戦(発酵食品への目覚め♥)







情報と食べ物は別のもののようでそうでもなく、
すごく密接に繋がってると思う。

いい子ぶりっこと悪い子ぶりっこ
↑これなんか、そのままリンクしている笑


頭の中にやたらめったら要らないものを取り込むと、
それによって思考→感情が乱れ、行動がぶれ、
要らないものまで口に入れちゃう破目に。


逆に、
必要ないものOR必要以上のものを身体に取り込むと、
クリアな思考が乱され、
イライラしたりぼーっとしたりする。


相乗効果というか、悪循環にはまるということが分かりました。



落ち着いて、
何が必要なのか自分としっかり対話しながら選ぶ余裕、
これが大事なのだと思います。




それでね、

これをきっかけに、
発酵食品づくりにチャレンジ。

っていっても難しいものはできないし、

ずっと前に買っておいた米麹(賞味期限3年近く切れ)で甘酒をつくる、
そして、家にあるものでできそうかつすごく乳酸菌が多いという水キムチをつくることに!

水キムチ。漬けたばうかりの段階。
野菜は、大根と人参。



結果からいって、
両方たぶん失敗。。。。



甘酒は、甘さが足りない。

理由は、玄米で作ったことと温度管理(炊飯器)がうまくできなかったことかと思われます。かなりいい加減にやったから、高温になりすぎたかな。。(え?期限切れのせい?)
でも、味が薄いとはいえ普通に飲めるので飲んでます。
ご飯がわりとかにして。
あんまり甘くないけどお腹にはいい感じがする。



水キムチは。。。

ちゃんと分量も量ってつくったんだけどなぁ。
発酵しない。
いつまでたってもぶくぶくしない。(゜.゜)
敗因は、密封できない容器に入れてやったことかなぁ。
いつまでたっても発酵している様子がないので、一日経ってからサランラップで密封したんだけど、遅かったのだろうか。
それとも他の理由が???
とりあえず漬け汁は捨てて(くっそーもったいない)冷蔵庫で保管しポリポリ食べてます。



またチャレンジします。


甘酒は、次は白米でトライする。(賞味期限内の米麹でな)
水キムチは、密封はもちろんのこと用具の殺菌もちゃんとやろう。



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発酵食品好きなんだけど、
スーパーではちゃんとした発酵食品ってなかなか手に入らないじゃない?

味噌とか納豆でも発酵止めで菌は死んでるだろうし、
キムチだってよくわからない液体に漬けられた浅漬けみたいのが多いし。
ヨーグルトだってそうだよね。



家で気軽にできたらいいなって思ってたけど、
意外に簡単そう。

と思ってやってみたら思ってたより難しそうだけど笑


楽しかったのでよかったです。



そんなこと思ってたら、
NHKで「きょうから発酵ライフ」っていうのやってて、
今日は酒粕回だったんだけど、面白かった♥♥


沖縄では酒粕ってあんまりなじみがないのね。
粕汁とかも飲んだことないし。

でも知り合いの方からいっぱい分けてもらえそうなので、
COOKPADとか見ながらいろいろ試してみたいと思います。




正直、この世界には前から興味はあって、
でも難しそうだからって材料は買っても挑戦したことなかったのね。
だからこの機会にやってみることができて良かったです(*´▽`*)

便秘、このためだったのかなとか思ったりして笑




梅雨が完全に明けたってなったら、
今度は干し野菜にもチャレンジしたい!
(実は、前記事に書いた切干大根、三日で黒くカビちゃって涙)

何度かチャレンジしてはいるんだけど、毎度翌日雨降ってくるんだよな。
湿度あがってカビ菌さん大繁殖みたいな。





わたしの場合、なるべく(使いすぎている)目と頭を休めたいので、
手を中心に身体を使うことを心がけたいところ。

発酵食品やその他の調理、下ごしらえは、それにちょうどいい作業になりそうです。






2017年5月8日月曜日

わたしはいつまで日記を書き続けるんだろうか


書けるうちに、書きたいうちに書いておきたい。全部。


今思うことは今しか書けない。
臨場感が消えてしまうだろうから。


苦しくて毎日泣いて泣きすぎてティッシュひと箱を一日で使い切り、
もう無駄使いだからとトイレットペーパーで代替し、
最終的にはバスタオルで涙と鼻水を拭いていたときの感情は、
今では思い出せないから。




わたしは、どんどん変わっていくだろう。

感じ方もものの見方も変わっていくだろう。



今とはまるっきり違う方向へと変わっていくだろう。
わたしはそれを望んでいる。



そのときにはもう書きたくないかもしれない。

書くのは無駄だと思うかもしれない。
わたしの言葉は多くの人にとって理解しにくいものになっているかもしれない。
もっとしたいこと、優先したいことができているかもしれない。


いやわたしにとって「書くこと」は、
人生の中でとても重要な行為であると思うので、
そのときもきっと言葉を紡ぎ続けるだろう。


が、今のかたちではないかもしれない。




いつまで今のかたちで毎日の心境を綴り続けるのだろうか。
よく飽きもせず。


あなたもいつまで読み続ける?笑






今はわからないことが、
そのときにはわかるようになっているだろう。

それが楽しみだ。



もっと静けさの中にいれるだろうか。


自分をもっと知ることができているだろうか。



自分を大切に、
一心に想うことができているだろうか。

今よりもずっと。




このblogは、

今の自分が自分をより知って自分を表現していくための手段だし、
これから先の自分がこれまでの自分のことを振り返るための手段だし、
知らない誰かが読んで何かを感じるためのきっかけになればいい。

ならなくてもいいけど。




きっと届く人には届くし、
永遠に触れ合わない人のほうが多いのだ。


一瞬だけでもかすることができたのなら、
それだけで奇跡と呼んでもいいかもしれないね。




でも

その奇跡に感謝しよう、なんて絶対言わんよわたしは笑


わたしは衝動に突き動かされるだけだし、
たまたまとたまたまが重なって、
ただの偶然を、人によっては気づきや行動のきっかけとすることもあるだろう。


うまいこと使われるだけ。
人生に。
流れに。


笑っちゃうね。






2017年5月5日金曜日

「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」



もともと人間が好きじゃないんだよな。

だから、人間である自分が好きじゃないんだよな。



小さい頃にNHKでやっていた子供番組を観ていた影響なのか、
わたしは「人間ってろくなことしないな」という思いがすごく強い。

いや「ろくな存在じゃないな」だな。



木を切って荒地にして
興味本位、もしくはお金になるから動物を乱獲して
たくさんのガスを出して
汚れたものを綺麗にするために洗剤をドバドバ使って海や川に流し
整地するといって土をコンクリートで埋める

地球にとって、嫌なことばっかりするよな、って思う。

心も汚いし、もうまとめてみんないなくなったほうがいいんじゃないの?




本当に本当に、
人間って自然の秩序を乱して壊すためにいるの?
って何回も思ったし悔しかった。
悲しくて落ち込んだ。

わたしなんで人間なの?みたいに、自分の種が嫌だった。
憎んでたと言っても過言ではない。



まあ、同じ番組を観てた同世代の子供たちは何万人といただろうし、
みんながみんなわたしと同じように自分が人間であることを恥じてるとは思えないので、たぶん番組のせいじゃないです。



これはわたしの性質的なことです。


ナウシカやもののけ姫的な世界観が、
なじむかどうかの話です。



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一回り年上の元彼が、歯磨き中に水を流しっぱなしにしていた。(しかも結構な量)

最初は、そんなこと注意とかしたくないし、
説教かよとか思われたくなかったから言わなかったんだけど、
どうしても気になったから横からきゅって止めたの。
(なるべくさりげなく止めたつもりだった)

そしたら「なんで」と言われた。

ruは「水、もったいないじゃん」と言った。


彼は「俺、実家でも水止めろとか言われてないし。これぐらいよくない?じゃあ俺が水道代払うよ。別にruが嫌だったらruが見てるときは流しっぱなしにはしないけど」と言った。
すごく嫌味っぽく。
(わたしはそう感じたけど…。今考えてもやっぱり思いっきり皮肉だったと思う)


ruは「うん、ごめんね」と謝った。
すごいむかついたし悲しかったけど。

腹立ったし、なんでか泣きたいくらいに悔しかったけど、
謝って洗面所から離れた。



そのとき、元彼とはうまくいっていなかった。

一緒にいて心地いいとか、フィットするという感じがなくて、
でもお互いに笑顔をつくってデートらしいことをしてご飯を食べて、
まあそういう末期の状態だった。

だから彼もそういう棘のある言い方をしたのかもしれない。



だけど、

そのとき、「ああこの人とは致命的にダメだ。感覚が違う」と思った。



彼は、わたしが節約のために水を流しっぱなしにするなと言っていると思ったかもしれない。
もしくはわたしが「いい人仮面」で、いわゆる道徳をタテに彼を説教しようと、批判しようとしていると思ったのかもしれない。



でも、わたしは、

水を命だと思っていない態度が、つらかったのだ。

地球を生きている存在だと感じていないことが、
見ていて悲しかったのだ。



自然や人間以外の生き物に対して、
そういう扱いをする人はたっくさんいる。超いっぱいいる。


でも、身近な人だと、我慢できなかった。

我慢するなら、一生我慢することになる。

生き方の根幹に近い部分なのに、それを無視して生きていくことになる。





「この人は、地球が痛くても痛くないんだ」




それはとっても大きな隔たりで、
感じない人には絶対にわかってもらえない。


お利口さんで言ってるんじゃないのに。



「へー、感受性豊かだねえ」
「へー、想像力あるねえ」
「へー、ただのモノじゃん?擬人化しすぎじゃない?」
「へー、まじめだねえ、優しいねえ」

それくらいのものだろう。




だって、痛くないのだから。






わたしは例によって自分の感覚を軽視して生きてきたし、
自分が憎んでいた「人間」の側面に
積極的に同化しようとしてきた。

じゃないと葛藤が大きすぎて苦しい。


わたしはわたしが憎んでいる「人間」なんだ。


自分だけ綺麗みたいに思うな。




その感覚を、
その感覚を憎み忌み嫌って捨てたときの感覚を、
今思い出している。



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わたしは一人でよく近くの海に行く。

GW中も、
仕事帰りでも仕事の前でも休日でも、
わたしはよくその海でぶらぶらしている。



自然のビーチというのは、
着替える場所もないし潮だらけになっても洗えないし、
現代人の遊び場には使い勝手が悪いものだ。


十年前くらいに大がかりな整備が入り、
埋め立てや護岸の工事、
傍にはレストランや公園、そして水道もトイレも整備された。

当時は地元でも賛否両論あったけど、
それは現実になった。


気軽にぶらっときて、
便利に使える施設になったと思う。

だから地元の人だけじゃなくて観光客もいっぱいいるし、
ビーチパーティーをしている人も、
海外からウェディング写真を撮りにきた人たちもよく見かける。



そこで写真をとってSNSに載せたり、
blogで紹介している人もたくさんいるはずだ。



夕日の時間帯には、
たくさんの人たちが空にカメラを向ける。




綺麗だね、
水が透き通ってて砂も白くて、

あ、魚もいるよ。





わたしが小さかった頃、
もう20年も前になるけど、

すぐそのへんを歩いていたら、貝やウニがたくさんとれた。
拾ったそいつらをバケツに入れて家で割って食べるなんてよくやってた。


そのへんの岩陰には、
青い小魚以外にも、熱帯の色とりどりの魚がいたし、
ナマコやカニがいたし、
イソギンチャクだっていたし珊瑚も白くなっていなかった。

まだ生きていた。




今は、引いた砂浜をずーっと沖のほうまで歩いても、
20年前にはいた生き物たちがいない。



20年前にも、
祖父母や父から、
「昔はここにはもっとたくさんの魚がいたんだよ」と言われてた。


父は、幼い頃に父のおじいさんといっしょに海に行き、
おじいさんが手に持っていた網を波うち際に投げてたくさんの魚をとっていたと話してくれた。

小さくて目もよかった当時の自分にもとても見えなかったけど、
おじいさんには魚の群れの動きが見えていたんだな、と言っていた。



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わたしたちはどんどん自然から離れて、

もちろん魚がいても見えないし、
いやそもそももう魚なんていない。


星を見て方向を見ることも、
風の湿度で明日の天気を当てることもできない。

そんな能力はみんな失った。




わたしたちにとっては、
空も海も虫も鳥も全部敵だ。

支配する対象だ。



海が綺麗ね、と言っても、
うわっつらしか見ていない。

綺麗な海が好き、だけど海を殺すことには無感覚。


自然を守ろうなんて言うな、傲慢にも。
うちらに守れるはずない。
驕りだ。





だからもし、
地球が人間のことが嫌いでも当然と思う。


だからわたしは人間であるわたしが嫌いなのだ。

人間でごめんなさい、と思う。





ごめんなさいって思っても仕方ないけども。



人間って本当に、
地球を壊すために生まれてきた存在なんだろうか。
(流れの中で、癌としての役割を果たしているんだろうか?)


そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


そうじゃないかもしれない可能性をとりあえずは信じたい。
(じゃないと話が終わってしまう)


自然の中で調和をとれる存在に、
どうやったらなれるんだろうか。

なれるんだろうか。



わたしはとりあえず、今は死なない。

だから、せめてどうにか地球の邪魔にならないように生きていきたい。




そう思って過ごすGWです。






2017年5月4日木曜日

今季のユニクロ可愛い!!トップスを4枚買い足すの巻

GWですが、
わたしはずーっと家&そのへんで過ごす予定です。
というか予定がないです。

どうも、ruです。





きのうは夕方からユニクロに向かい、
あっというまに渋滞にはまり国道を2キロくらい、5キロ/hぐらいで走って、
中央分離帯が切れたところで諦めて右折Uターンして家に帰りました。

北向けに向きを変えた途端に、80キロ/hで走れて、
とっても爽快な気分☆でした…



なので今日午前中にリベンジ。


またTシャツ類トップスを買ってきました。
(図らずも、青白系にもどっちった…笑)






以下、写真は全部ユニクロさんHPから→ ☆ユニクロHP☆

スーピマコットンリブクルーネックT(半袖) 

前買ったやつの色違い。
今日は白をゲット。

【参考】ここ1、2カ月で買ったお洋服たち♥(写真あり)





それからこれ。
リブバレエネックT(半袖)

ライトブルーとグレーの二色。




着るとこんな感じ。

上のクルーネックと似てるんだけど(リブだし)、
首周りの空きがもっと広いです。サイドに。

で、フィットします。

好み。。。




あとこれ。
エクストラファインコットンスリットネックブラウス(半袖)


わたしはこの、
くすんだブルーのような(実物はもっとくすんでます)色を買いました。
でも表記はGREENとなっています。

置きだとこんな形。

でも着るとすっきり見えるよ。

店頭には黒人の女の子が着てる写真があって、
HPのモデルさんよりもカジュアルな着こなしで可愛いかった♥






以上、四枚のお買い上げになりましたー!
サイズはぜんぶM。

合計五千円ちょっと。



まじで、今季のユニクロ、可愛い子がいっぱいいる!!
2、3年前はほとんど買うものなかったのに…
アタリ年なのかな。


自分には似合わなさそうだなーって思いはするも、
やっぱり可愛い綺麗な形のものは多くあって。

デザイナーさんがた、頑張っておられますな、と思う。(上から)



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でもレジ並んでいるときにちょっと罪悪感が出てきて、
正直棚に戻そうか迷った。


洋服好きだけど、
それにばかり意識をむけるのってどうなの?と。
ファストファッションだしな。
自然素材が好きだけど、綿ってめっちゃ農薬使うしな。


いろいろ思った。



罪悪感は意味ないって分かってる。



だから、
現時点でほしいと思うなら買って、
毎日気持よく着て、

いつかファッションに意識むけること自体に違和感を感じるようになったら、
そのときはすっぱりやめよう、と結論出してお買い上げです。



考えすぎかな。

考えすぎかもしれなくても、
わたしはそういうめんどくさい人間なんですよね。



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家に帰ってきて、

冷蔵庫で長いこと放置されていた使いかけの大根を、
細切りにして切干し大根とする。


せっかく晴れて太陽の日差しもあるし。

よーやく重い腰をあげる。



切った大根をボウルにあげて、庭のゴーヤー棚の網の上に置く。
(家庭菜園を父がやっています)


傍にはミニトマトがたくさんなってて、
虫に食われているもの、
鳥に食われているもの、
腐って土の上に落ちたもの、

緑のものも赤のものもいっぱいある。



庭には、パパイヤがありニラや葱があり、
ときどきは葉野菜があり。




自給自足の生活には憧れるけど、

こだわりだすと、
農薬は使っていないが化学肥料はどうなの、
種はF1種以外(在来種)を探すのは難しいよ、
虫や鳥や雑草をどう捉えるか、

って、やっぱり気づくところ(気になるところ)はいっぱい出てくるんだよね。




そこのバランスだな。



一気に全部は変えられない。
天国に引っ越すことはできない。


こころがパサパサにならないように、
でもだからといって快楽に飲まれないように、

地に足を着けて、
方向性だけはちゃんと定めて、
先を見すぎずに(先なんてものはない)、
今自分はどう思うのか、何をしたいのか、何を求めているのか、

バランスをとっていく。




それにOKを出していく。




矛盾に感じられるところがいっぱいあるんだ、
でもどちらともいえない段階なら、
無理やりにどちらともいわず、保留にしとく。


こうじゃなくちゃダメ、はわたしの望む在り方じゃないから、
そうはならないように。



でも、

正解はないにしても、
「今を楽しめばいいんだよ」も違うと思う。

それってたいていの場合、
麻薬の高揚感、「苦痛の気持ちよさ」を指してる。



内側にちゃんと道があるのだ。

その道からはずれてないか、
声に耳を澄ませているか、
ずれに気づいたら戻る意志はあるか。




その上で自由に生きれたらいいな。





苦痛は気持ちいい



人は何よりも退屈を恐れてるんじゃないかと思う。


退屈よりは、
苦しかったり辛いほうがいい。


「喜怒哀楽」
人間の感情はすべて「憎悪」である、
という言葉には納得できる気がする。






わたしが19歳で共依存の恋愛に苦しんでいるとき、わたしはいつでも相手のことを考えていて、毎日泣いていた。

友人に「なんでその人がいいの」と言われた。
わたしは答えられなかった。

その友人は「わたしは追いかけるより追いかけられたいな。愛されたいな」と言った。
「世の中には、もっといい人いっぱいいるよ。普通の恋愛だってできるよ」と言った。

わたしは…
「いやだつまらない」と思った。


そう思った自分に焦った。


「普通の穏やかな恋愛なんて恋愛じゃない。退屈だ。わたしはもっといつでもどきどきして感情のジェットコースターを味わっていたい。それが恋愛だ。わたしは普通の恋愛なんかに興味はない」
という不都合な真実に気づいてしまった。


そして慌てて、なかったことにした。

(だって自作自演なんて認めたら興醒めだからね)

【参考】罪悪感は世界一意味ない ←罪悪感なんてもう最高に気持ちいい笑




わたしは、確実に酔っていた。


恋愛中は世界が色づいて見えるとか言うけれど、
わたしはそれに加えて、
より強烈に「自分は世界の主人公である」という感覚を必要としていた。

人と比べて特別意識もあっただろう。
(決して羨ましがられてはいなかったと思うが、そんなの関係ねぇ)



共依存の恋愛は、超刺激的だ。

苦しくて苦しくてしょうがなくて、甘美だ。


苦しくて痛くてしょうがないから死んでもいいとすら思うんだけれど、
まあ結局死なないよね。
お楽しみなんだもの。

お楽しみで死ぬのも盛り上がりはするけど、
もし一線を越えたら「あっちゃー」だ。
慌てる。
「いやいやいや、寸止めっしょ、そこは」笑






だから、やっぱり苦しみは気持ちいいのだ。

麻薬だ。
強烈に自分を「ヒロイン」にしてくれる。

自分を特別に感じさせてくれる。


というか「自分」を強烈に感じさせてくれる。

「自分」の存在を、世界から浮き上がらせてくれる。


それがめちゃくちゃ快感なのだ。




穏やかに、何も起こらないなんて何?って感じだ。

つまらない。
「自分」がここにあるのかないのか分からないじゃないか。


喜びだって、
楽しみだって、
本当は「苦」の一種だ。

麻薬だ。

(だから「首しめて」とか言っちゃうんだYO笑)
【参考】性癖って、コントじゃん?




退屈から出ていきたいのだ。

「時間の無駄」だといつでも頭は言う。



刺激がほしいの。ちょうだい。




「わたし」はいつでも何かになりたがる。


気持ちいいから。
理由はそれだけ。

「生きていると感じる」と人は言う。


でも、それは麻薬使用後の高揚じゃないだろうか。


麻薬が切れると、
もしくは慣れて効かなくなってくると、
また同じ退屈の中に戻ってきてしまう。


そしてまた刺激を欲する。

もっと強烈な刺激を。



別に「喜怒哀楽」どれでもいいのだ。
「悲喜こもごも」がほしいのだ。

どれも一緒だ。
【悲喜こもごもつながり笑】義理人情、悲喜こもごも人間模様はわたしの人生にはいらない




人は、退屈の中に留まるのが辛いのだ。

不安になるしね。



やってみると分かる。

いやこの場合の「退屈」はマインドにとっての「退屈」なので、
誤解しないでほしいんだけど、
「自分を特別だと感じられる刺激を求めないようにする」と同意と思ってもらえたらいいと思う。

「美人は三日で飽きる」の、美人と一緒。
飽きれば役に立たない。



「喜怒哀楽」を感じるための
外側のイベントを求めず、
思考をいろんなところに飛ばして感情を動かす遊びもやめると、
それはそれは退屈です。




じゃあその空いたスペースをどう使うかというと、

たとえば歯を磨くとかドアを閉めるとか食事をするとか。
そういう行為をするときに、
何か自分にとって面白かったり(それをする自分を特別に見るための)意味のある意味付けを探したり、
逆に適当にやるんではなくて、

すべてを丁寧にやるということ。



うん、キーワードは「丁寧」かもしれない。



丁寧に行為をするときって、
逆に「自分」がいなくなる気がする。

高揚感がゼロになる。


「喜怒哀楽」がなくなり、
上に何度もあげたような気持ちよさも消える。




だけど、もっと静かな心地よさが現れる。



穏やかでつまらないかもしれない。
(そして、見たくないものが見える可能性もあって、それは気持ちよくない。けどスリルがあると思えたら、裏返って違う種類の気持ちよさになる笑)

だから、そこは好き好きだけど。






「苦しい」は気持ちいいよね、わかるよ、と言いたかった。


気持ちよくなければ、
そんなの選ぶはずないもの。

人間だってそんなにわけの分からない行動はしない。


気持ちいいから選んでるんだ。



だから、かつてのわたしのような人に、
「もっと幸せな恋愛をしたら」というのは、
大きなお世話を超えて野暮だ。

それは「気持ちよさを半減させる」提案だから。




しかし人ってやつは、
退屈から逃れるためならなんでもする。

戦争だってする。
人生を賭けて、命だって賭ける。
(だって賭けるものが重大であるほど刺激は強くなる。スリル命。)


というかOSHOは、戦争は人が刺激を求めるところから生まれると言っているが、
それは本当だと思う。
血と暴力とセックス。
ハリウッド映画は全部備え持ってる。

人間が欲しがるものだ。

興奮したい。
つまらない日常から出て、「特別」を疑似体験したい。




内側を見て。

そこには何がある?






自分を信じて守り通すことができるだろうか



ここ一、二カ月わたしは体調がすぐれない。
主に便秘。

でももういっこあって、視力の低下。


両方繋がってる気がする。



「取り込みすぎ」だ。
自覚がある。



外側から必要以上のものを入れるな、ということだと思う。

特に情報。
いや食べ物もだけれどね。

ガマンしなさい、という感じ。



必要じゃないけど、
わたしは惰性と退屈から取り込んでいる。

不安なんだろうか。

自信がないんだろうか。

怖いんだろうか。




一人で立っていることが怖いんだろうか。



逃避でもあるな。




便秘も視力低下も顕著な変化で、
明らかなメッセージだと思ったので、
最初は抵抗していたけど、メッセージを受け取ることにした。
(だって便秘でも食べたいし、必要なくても読みたい)



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すると過去の自分を思い出した。




このblogでは何度も書いてきたけれど、

わたしは自分よりも他人の感覚が正しいと思って、
自分を疑い信じてこなかった。


それでもわたしの態度が強情に見えることはあっただろうし、
「確固とした自分の意見があってすごいね」みたいなことを言われたことも一度や二度じゃないから、よくも悪くも「自分がある」ように見えていたかもしれない。


でも、本当は違うと思う。



それは、十分に自分を殺したあとのわたしの姿だ。




わたしは基本的に、
全部周りの言うことを受け入れてきたタイプの人間だ。



ことあるごとに、
「自分がおかしいのかな」と思い、
自分が好きでもないものを好きと言うような、
行きたい場所も言えないような。


わたしはわたしであることが嫌だったんだろう。



だから信じてあげられなかった。

信じるなんて、
守り通すなんて選択肢はなかった。

そこまでの価値を感じていなかったから。





それがわたしの選択だった。

環境がさせたわけじゃない。
そう言うことはできない。

わたしが、わたしの感覚を選ばないという選択をしただけ。
感覚を捨てる、という選択をしたのだ。わたしが。




悲しくて辛かったし、
そのあと指針を失って途方に暮れた。


でも仕方ないことだ。

自分がやったことの結果は自分で受け取るしかない。






わたしはどんな女の子だっただろう。


わがままで、
注目されたいのにされると恥ずかしがって、
素直だけれど素直じゃなくて、
失敗するのが嫌で、
空想癖があって、
絵本とお絵かきが好きで、
大人しくて、
泣き虫で、
子犬にお弁当を食べられても見ているだけで、

でも怖がりのくせに冒険したくて、
新しくて不思議な世界を信じていて、見たくて、
自分の頭で考えたくて、
自分が見て感じたことを口に出したい、
納得できない命令にはてこでも動かない反抗的な面を持つ、

人の感情や違和感に敏感な、
感受性が強くて神経質な子供だったように思う。





この中にも「原型」ではなくて、
既に環境から得た色が混じっているかもしれないけど、
わたしの記憶の中ではこんな子供だった。




でも、友人がもしこれを読めば、
「へえ、意外」と言うものもあるかもしれない。


特に、弱くて怖がりで泣き虫で感受性が強くて。。。の部分は、
わたしが自分で嫌って隠して殺してきた部分だから、
親しい友人であっても、「意外」な部分だと思う。


わたしは理屈じゃなくていつでも感性で物事をとらえていたし、
いつでも感じていた。

自分の世界に入ってはぼーっとしていて、
意地悪グループ(って便宜上言いますが、クラスで声が大きい子たちと思ってください。本当は別に意地悪なだけじゃないんですけどね。)の子たちが怖いと感じていた側。



だけど、それじゃあ身を守れないと思った。

だから、新しくキャラクターを作り上げたのだ。
鎧のように。

処世術の一環として、なるべく自分に負担の少ないキャラクターを。



それが、
成長してから出会った人たちが知る「わたし」だ。

5歳の頃とは違う。





ここ最近、
自分についてあれこれ考えているうちに浮かんできたのが、
そういう徒然でした。


もはや鎧や仮面なんていうほど、
「取り付けた外側」という意識もない。

わたしの一部、と感じている。



でももしかしたら、それも脱いでいく時期なのかもしれない。



あとから習得した、
「ひょうひょうとクールな、どうでもよさそうな態度」
「乱暴だったりきつめの言葉づかい」
「意地悪を言うこと(冗談)で距離の近さを確認するコミュニケーションの取り方」

要らないかもしれない。



自分でも、強すぎると感じていた表現たち。

自分の一部と思えるほどクセになっているから、
気づかずにそれを演じてしまうことは多々ある。

でも、

それももう自分から切り離してもいい時期かもしれない。




そしてまた自分に戻っていきたい。



今度は、
他人に何を言われるか思われるかではなくて、
自分の内側に忠誠を誓えるだろうか。




自分を信じて、守り通すことができるだろうか。








2017年5月1日月曜日

「モトを取る」思考



バイキングに行ったり、
バイキングレストランの話題になったとき、
結構な確率で誰かの口から出る「元を取る」という言葉。


すごく違和感がある。


なんか、豊かじゃないよね。





相手の方が、
「わたし●●が大好きなの、それだけ食べられたら幸せ」
というので、

ruは「じゃあ、しょっちゅう買って食べたらいいですよ」と言った。

彼女「でも高いからそんなには買えない」

ru「高いっていっても、1000円もしないんじゃないですか。1000円で確実に幸せになれるんだったら全然高くないと思います」

彼女「んー…。でもわたしバイキングでもそればっかり食べてたいくらい好きなの。でもそればっかり食べてると、周りに元取れないよって言われるから別の食べるようにしてるけど笑」



………。




えーーーーーー笑



それって、えーと。


なんか不思議なことおっしゃってませんか?ね?






元を取る、という思考の残念なところは、二つあると思う。


①モトを取る(払った金額以上のものを消費、獲得する)ことが優先課題となるため、それ以外の喜びや満足が後回しにされる。
ex)好きな物を選ぶ、ほどほどでやめる→身体が軽い状態で次に移れる


②コストを意識してはいるが、それが単純な物の値段にしかむいていない。
他のサービス(新鮮に保つ努力、盛り付けなどのワザ、スタッフの気遣い、場所の雰囲気づくり)などは、コストに反映されないことになっている。

そのため、それらを感謝して受け取れない



「元を取りたい」という考え方は
どちらかというと、「損をしたくない」の「損」にフォーカスしている。

わたしが出したものに対して、きちっとした分量で見返りがあるか?
とずっと見張っている感じ。

あと、相手に「得」をさせたくない、もあるね。(なんでや)




そして食事中ずっと原価計算。笑



それは辛い。笑



当人も辛いだろうし、
今となっては同席しているわたしだって辛いぞ。
楽しめないぞ。

(前はわたしも同じような思考だったので、違和感も感じてませんでした)
(今はその思考のかけらを見つけてはポイっとする日々です)



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身内が、
テレビ観てて、旅館や食事の値段が出てきたりすると、
しょっちゅう「たっかっ」って言うのね。
「庶民はこんなに出せないよねえ」って。

(いや、ランチ懐石フルコース、高級っていっても一万五千円なら経験しようと思えば全然できるやん、なんだ♥って思ってたんですけどわたしは。と言いたい笑)



わたしだって値段は目に入るけど、
それよりも綺麗なインテリアとか盛り付けとかおもてなしの感じや言葉遣いとか、
どんな人がどんな風に利用するんだろうとか、そっちを見たり想像する。


そんで、たいていの場合は、
「値段に見合ったクオリティだなあ(すげえ)」と感じるし、
「そう感じる人が気持ちよくお金を出してサービスを受けるんだなあ、その人たちにとっては高くはないんだなあ」と思うし、

逆に自分が高いと思ったものについては、
「提供者は自分(の提供するもの)に自信があるんだなあ、自己肯定感の高さを学ぼう」とか、
「好みは人それぞれ、ちゃんとマーケットはあるんだなあ」と逆にほっとする気持ちにもなったりする。



でも第一に「たっかっ」が口をついて出てきて、
値段への感想ばかりが出てくるということは、
その人にとっては金額が一番大事なんだなあと思う。




コスパにこだわる、

それが悪いわけじゃないけれど、
他にもっと興味あることないのかなあとは思う。



まあ、お金よりも名誉(見栄)が大事、
ってなってきてもそれはそれで縛りになるから、
あんまり優先すべき何かを持たないほうがいいのかもしれない。




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感想や質問は、それ自体がその人の頭の中を表すから、
ちょっと怖いことだよね。

どこにこだわってるかが透けて見える。



ruの場合だと、
前はそれが怖かったけど、今は「見られてもいいや、どうしようもないのがばれるだけだ」と、ある意味開き直ったというか、別にあんまり気にならなくなってますが。


見てくれや、って感じです 笑