2017年5月16日火曜日

【群衆】ひとりでいるのが淋しいのは、何かがおかしいのではないか


思考と感情は不純なもの、
不要なものだという言葉に出会った。



人間の感情はすべて憎悪であるとも。



前にもご紹介した
もののケのしおりちゃんという女の子の話していることなんだけれど、

興味があれば、
もののケのしおりちゃん Twilog(最近のものは非公開)
をごらんになってみてください。





わたしも、きっとそうなんだろうなと思ってる。

もちろん、
いくら不純だと言われても、
わたしの頭はその不純なものでいっぱいで、
いまだなくすこともできていないんだけれど。





わたしたちは幼い頃に、
「みんなで仲良くしましょうね」と習うので、

物理的にひとり、
心理的にひとり、

であることをネガティブなものだと思ってる。


ひとりになることを怖れている。





たとえば、
いろんなことにチャレンジして失敗することが怖いのも、
「お金が稼げない」とか、
「親の顔をつぶす」とか、
「尊敬されなくなる」とか、
いろいろ無数に理由はあげられると思うけど、

結局深掘りしていったら、
「ひとりぼっちになりたくない」が出てくると思う。






以前にHappyちゃんのインスタ配信を見ていたとき、

「周りに、不安だらけの人しかいなかったら、失敗するのが怖いけど、
うちらみたいに「失敗、うけるー」って言ってくれる人ばっかりが周りにいたらどう?
チャレンジしても、失敗しても大丈夫だよ」

みたいなことを言ってた。



あの発言は、人を勇気づけるものになっていたと思う。




ただひとつわたしにあった違和感は、「仲間」。


「みんなで一緒にチャレンジしてくなら、怖さも減るよね」
という認識。





上記のしおりちゃんは、すべての「人間関係は不要」と言う。

自分と繋がってさえいれば。




わたしが、仲間をほしがる感覚になじめなかったのは、

「じゃあ仲間がいなければやらないの?」
「結局外側次第で自分が望むことをするかどうかを決めるの?」
「外側が内側に影響するの?」
「仲間と思ってる人が自分の望むことを理解しなかったり嫌がったらやめるの?」

って問いがずっと消えなかったから。



違うだろ、と。




チャレンジとかジャンプというものは、結局誰の後押しもなく自分で選ばなきゃ、
傍目から見てそれが「跳んだ」ように見えても、

結局は依存の域を抜けてないんじゃないか、と思った。




そういう視点での「仲間」は、覚悟や自分の負うべき責任を免責、減免させるためのものでしかない。







OSHOの言葉を載せます。







孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

 私はひとりでいるときはいつも、かけ離れ、孤独で、惨めな感じがします。私は他の人たちと一緒にいるときしか自分を愛せません。独りだと、恥ずかしくて、自分が好きではありません。まるで私は他人の目を通して自分を評価しているように思えます。


 それは根本的な問題のひとつだ。人間ひとりひとりがそれに直面しなければならない。
 それはあなただけではない。子どもたちの育て方が、この惨めさ全体の原因だ。あるがままの自分で認められている子どもは、ひとりもいない。両親、先生、年長者たちの指示に従えば、彼は褒美がもらえる。これらの指示は、彼の自然さに反するかもしれない。なぜなら、これらの指示は、彼によって、あるいは彼のためになされたものではないからだ。誰かが5千年前にこれらの原則をつくり、それらがいまだに子どもたちを育てるのに用いられている。
 当然、子どもはみな、置き換えられる。彼は本来の自分ではない。自分自身ではない。彼は誰か他の人だ。その誰か他の人は、社会によって、他人によって与えられている。
 だから、あなたがひとりで、あなたに指図する人が誰もいないとき、あなたはただ自分の本性に寛ぐ。演じる必要は何もない。見ている人がいないからだ。その、自分の本性に寛ぐことが、あなたに罪悪感を抱かせる。あなたは自分の両親に、聖職者に、社会に逆らっていて、彼らはあなたに、あなたは、あなた自身では、正しくないと言っているからだ。あなたはそれを受け容れたのだ。それはあなたの中で条件付けされたものになっている。
 あなたが自分でやることはすべて、つねに非難され、あなたが他人に従ってやることはすべて、つねに褒められる。
 あなたが独り在るときには、他には誰もそこにいない。当然、あなたは役目を果たす必要はない。あなたは偽善者である必要はない。あなたはあるがままの自分に、ただ寛ぐ。だが、あなたのマインドは他人から与えられたゴミでいっぱいだ。
 だから、あなたが他の人たちといるときは、その他の人たちがあなたに指図している。そして、あなたが独りのときは、他の人たちによって作られたマインドがあなたを醜く感じさせ、罪悪感を抱かせ、価値がないと思わせる。
 人びとが独りになりたがらないのは、そのためだ。彼らはつねに、他の誰かといたがる。他の誰かといると、彼らは自分の本性に寛ぐことができないからだ。他人の存在が、彼らを緊張させておく。他人がそこにいて、あなたが取るすべての行動と仕草を瞬間ごとに判定しているのだ。
 だからあなたは、正しいと教えられた、ある行動をただ演じる。それで、あなたのマインドは気分がいい。それは条件付けに沿っている。あなたがうまくやったので、あなたのマインドは幸せだ。あなたは素晴らしい。
 人びとは群集を必要とする。これが、彼らはなぜつねにヒンドゥー教に、キリスト教に、イスラム教に、この国に、あの国に、この民族に、あの民族に属したがるのかという、心理的な理由だ。 たとえそれでは物足りなくても、彼らはロータリークラブ、ライオンクラブをつくる。




元文はコチラ→「孤独は苦痛、独り在ることは安らぎ。ん?

(もっと長いし面白いので続きも読んでみてね)





OSHO HPより引用させていただきました)









わたしたちは、「ひとりになりたくない」と言うけど、
しかもそれが行動選択の最も深いところにある切実な動機になっていたりもして、

さらに、
それは弱い人間ゆえに仕方のないことであり克服する必要はないもの、
だと思いがちだし、

それを「人間の哀しくもいじらしい、可愛さ」だととらえ、
それゆえに「人は人と深く結びつこうとするし、絆を築ける」とポジティブ解釈さえする向きもあるけど、



本当にそうなんだろうか?





わたしたちが「憎悪」ゆえに求める「人間関係」は、

ほんとうにわたしたちが求めるものなんだろうか?




まだ、答えは出ていません。








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